人物相関図が示す物語の転換点
NHK連続テレビ小説「あんぱん」の第11週を迎えるにあたり、公式サイトに掲載された人物相関図が大きな話題を呼んでいる。この相関図の変化は、単なるキャストの入れ替えを意味するものではなく、物語そのものが新たな局面へと向かうことを象徴的に示している。
第10週までの相関図では、朝田家と柳井家の人々が中心となり、高知での温かな日常生活が描かれてきた。しかし、第11週からの新たな相関図では、これまで物語の核となっていた人物たちの姿が次々と消えている。すでに亡くなったのぶの父・結太郎、戦死した釜次の弟子・豪、そして朝田家を去ったパン職人・屋村草吉といった愛すべきキャラクターたちの名前がもはや見当たらない。
この変化に対し、視聴者からは「ついに…」「豪ちゃんおらんやーん」といったショックの声が数多く上がっている。特に豪ちゃんについては、完全に希望的観測であることを承知しながらも、「戦後に戻ってくる可能性もある」という期待を抱く声も少なくない。朝ドラという枠組みの中で、そのくらいの救いがあってほしいという願いは、多くの視聴者の心を代弁している。
代わって新たに加わったのは「小倉連隊」の欄である。嵩が配属されたこの連隊の人々が相関図の大部分を占めており、物語の重心が完全に軍隊生活へと移行したことを明確に示している。視聴者の中には「小倉連隊の人間が多くて区別がつくか心配」という声もある。みんな坊主頭で、役名のない人達も大勢登場するであろうことを考えると、その懸念は十分理解できる。
気になるのは、何人かの人物紹介にあった「厳しく指導する」という文言である。この「指導」という言葉の背後には、予告編でも示唆されていた軍隊特有の厳しい現実が隠されている。しかし同時に、優しさを感じさせる人物も何人か含まれていることから、辛いばかりではない展開への希望も見えてくる。
人物相関図の変化は、視聴者にとって一喜一憂の材料となっている。好きな登場人物が多いからこそ、皆がコメントしたり感情を揺さぶられたりするのである。人気投票があったなら、むしろヒロインが下位になるかもしれないほど、脇役たちの魅力が際立っている。これは良作の証拠でもある。前作では一人も思い入れのある人物がいなかったことを考えると、その違いは歴然としている。
この相関図の更新は、第11週からの特定期間を示すものであり、再登場が完全に否定されたわけではない。戦後になると相関図も再び変わるであろうし、高知新聞社の面々も登場するはずである。そこで豪ちゃんやヤムさんの名前が現れる可能性も残されている。復活を待つ声、戦後の話での再登場への期待、そして豪ちゃんの生存への微かな希望──これらすべてが、視聴者の心の中で渦巻いている。
物語の注目ポイントを明確にするため、登場人物の再登場とは関係なく、必要最小限の人物のみを載せているという見方もある。相関図に載る載らないで一喜一憂することの是非はあるものの、それだけ視聴者がこの作品に深く愛着を抱いている証拠でもある。人物相関図という小さな変化が、これほどまでに大きな反響を呼ぶのは、まさに「あんぱん」という作品の持つ特別な魅力を物語っている。

妻夫木聡が演じる謎めいた上等兵の存在
第11週から新たに登場する八木信之介上等兵を演じる妻夫木聡の存在は、嵩にとって過酷な軍隊生活における一筋の光明となることが期待されている。予告編での登場シーンからも、他の先輩兵士たちとは明らかに異なる雰囲気を醸し出していることが窺える。
八木上等兵の最も特筆すべき点は、厳しい軍隊組織の中にありながら、決して新兵を殴らないという姿勢である。嵩の世話係として配属された彼は、確かに厳しい指導は行うものの、古年兵たちとは一線を画した接し方を見せている。この描写は、実際の旧日本軍にも存在したとされる、理性的で筋の通った人物像を反映している。
「貴様は、何者だ?」という台詞で初登場した八木上等兵を見た視聴者の多くは、また恐ろしい人物が現れたという印象を抱いたに違いない。しかし、その後の展開で明らかになったのは、過酷な軍隊生活で身が入らない嵩に対して厳しく咎めることなく、むしろこれからの生活面でのアドバイスを与える温かな一面であった。この二面性こそが、妻夫木聡という俳優が持つ表現力の真骨頂でもある。
キャスティングの妙というべきか、妻夫木聡が演じる時点で、嵩にとって救いの存在となることが予感される。これまでの朝ドラにおいて、戦争パートでは絶望的な状況が続くことが多いが、八木上等兵の存在は暗闇の中の希望の光として機能することが期待されている。
八木上等兵が嵩に向けて発した「そんなんじゃ戦場で真っ先に死ぬぞ」という言葉も、表面的には厳しい叱責に聞こえるが、その真意は「死ぬな(生きろ)」というメッセージとして受け取ることができる。軍隊という組織の中で、直接的に優しさを表現することが許されない環境において、このような回りくどい表現でしか伝えられない人間の温かさが、八木上等兵というキャラクターの深みを物語っている。
映画「兵隊やくざ」の有田上等兵との類似性を指摘する声もある。軍隊組織の非条理さを描く中で、その理不尽さに立ち向かう人物として、八木上等兵が位置づけられているのではないかという見方である。確かに妻夫木聡の演技には、単なる軍人役を超えた、人間としての複雑さと深みが感じられる。
謎めいた雰囲気を持つ八木上等兵の背景については、まだ多くが明かされていない。しかし、その存在自体が嵩の軍隊生活において重要な意味を持つことは間違いない。厳しい新兵教育の中で、馬場をはじめとする先輩兵士たちの理不尽な指導に直面する嵩にとって、八木上等兵は心の支えとなる存在になるであろう。
妻夫木聡という実力派俳優を起用したことで、単純な善悪の対立を超えた、より複雑で人間味のある軍隊描写が可能になっている。戦争という極限状況の中でも失われない人間性、そして過酷な環境下でこそ光る人間の優しさを、八木上等兵というキャラクターを通じて描き出すことが期待される。
視聴者からは「八木上等兵殿、嵩をパワハラから守ってやって下さい」という願いの声も上がっている。これは単なる期待ではなく、妻夫木聡が演じるこのキャラクターに対する深い信頼の表れでもある。八木上等兵の存在が、これからの戦争パートにおける救いとなることを、多くの視聴者が心から願っているのである。
柳井嵩を取り巻く過酷な軍隊生活
高知連隊から小倉連隊へと転属となった柳井嵩の前に待ち受けていたのは、想像を絶する厳しい軍隊生活であった。どうみても幼くひ弱で、軍隊の世界には場違いな嵩にとって、この環境は試練以外の何物でもない。朝から続く理不尽で厳しい軍隊の描写は、見ている視聴者にとっても辛いものがある。
新兵教育係の馬場をはじめとする先輩兵士たちからの厳しい指導は、単なる訓練の域を超えている。それは「指導」という名の下で行われる、事実上の制裁に他ならない。嵩は上官から蹴られ、殴られる日々を送ることになり、「ここでやっていけるのか」という暗い気持ちに支配されていく。このような描写を朝の時間帯に放送することは、制作陣にとっても大きな決断であったに違いない。
軍隊という組織は、入隊した年次と階級ですべてが決まる世界である。シャバでの社会的地位も学歴も一切関係ない。むしろ大学を出たようなエリート新兵は、とくにいじめの対象になりやすかったという記録が残っている。「貴様!大学なんか出ていてなんだこのザマは!」といった具合に因縁をつけられるのが常であった。この時代の大学出はシャバでは特権階級であったが、軍隊ではその経歴がむしろ災いとなったのである。
嵩が直面している現実は、水木しげる氏の自伝にも記されているような、敵にやられる前に兵隊が内務班の虐待で戦病死に追い込まれるという悲惨な状況と重なる。つまり無駄死にが横行していたのである。しかし、それは戦後になって初めて語られたことであり、当時の遺族はもちろんそのような事実を知る由もなかった。
両手で体を浮かせ、長時間自転車のペダルをこぐ真似をさせる自転車行軍や、軍靴を紐同士結んで首にかけたり口にくわえたり、頭に乗せたりして整列させる「鴬の谷渡り」、柱にしがみつかせて「ミンミン」と鳴かせる蝉など、旧日本軍の陰湿ないじめは枚挙に暇がない。これらは毎晩のように夜9時の点呼後に行われていたという記録もある。
現代のハラスメント思考の根源が、実はこの戦時下の軍隊的思考にあるのではないかという指摘もある。他人にマウントを取って屈服させ、言うことを聞かせるやり方は、終戦から何十年経っても社会に刷り込まれたままなのかもしれない。戦時下だから仕方なかったと誤魔化されてきたが、その負の遺産は現代にまで影を落としている。
嵩の軍隊生活において、わずかな救いとなるのは八木上等兵の存在である。厳しいながらも決して殴らず、古兵たちとも一線を引いている彼の存在が、嵩にとって心の支えとなることは間違いない。また、先に入隊していた「ある人物」との思いがけない再会も予告されており、この再会が嵩の心を救うきっかけになることが期待されている。
しかし、予告編で流れた「仲間がやられても、仇を取ろうなどと思うな!」という台詞は、今後さらに過酷な展開が待ち受けていることを示唆している。嵩がこの理不尽な軍隊組織の中でどのように生き抜いていくのか、そして戦場という極限状況でどのような体験をするのかが、物語の重要な焦点となっている。
朝ドラとしては異例ともいえる本格的な軍隊描写に取り組む制作陣の姿勢は、戦後80年を前にして戦争の悲惨さを視聴者に伝える意義深い試みでもある。嵩を取り巻く過酷な現実を通じて、戦争という狂気の時代に翻弄された一人の青年の姿が、私たちの心に深く刻まれることになるであろう。
戦争パートで描かれる真実の重み
NHK連続テレビ小説「あんぱん」が第11週から本格的な戦争パートに突入することは、朝ドラとしては極めて異例の挑戦である。これまでの朝ドラにおける戦争描写は、主人公の旦那や息子、父親が出征していき、あとは戦死の通知が来るか復員してくるかのどちらかというパターンが一般的であった。軍に入隊した後の具体的な描写が登場することは珍しく、制作陣の本気度が伝わってくる。
あの水木しげる氏を描いた「ゲゲゲの女房」でも、戦地のシーンはテントでうなされる回想シーンのみであった。しかし「あんぱん」では、衣装や小道具などで費用がかかる軍隊パートを敢えて制作することで、NHKの並々ならぬ決意を示している。さすがに戦闘シーンは描かれないであろうが、軍隊内部の生活を詳細に描くことで、戦争の別の側面に光を当てようとしている。
やなせたかし氏といえば、戦争は切っても切れない存在である。戦争体験があってアンパンマンが生まれたわけだから、がっつりと戦争を描くことの意義は十分理解できる。しかし、戦争が絡むと身構えて見てしまうのも事実である。悲しみも多く、今までは戦争に翻弄された人を見てきたが、これからは戦争を一緒に体験することになる。もはや映画並みの規模と覚悟が要求される内容となっている。
朝ドラの戦争描写といえば、「エール」の森山直太朗さんの戦死シーンが忘れられない。BGMが一切なしで、だからよけいに胸に突き刺さるものがあった。やなせさんを語る上で避けて通れない話であることを考えると、今回も相当な覚悟をもって観る必要がある。戦争の場面や時代の描写は確かに辛い。飯がない、人が死ぬ、そして個人の自由がない──そのような時代を目の当たりにすることになる。
この時代の日本人の価値観は、今の時代でもロシアなどで起きている現象と重なる部分がある。争いごとを無くすには、武器を持つことでも訴えることでも決して解決しないことが明らかになっている。学業が高い人達が戦争を起こすのであれば、AIの進化と共に学業のあり方を変えなければ、この世界から争いを無くすことには繋がらない。知能教育から人間教育へと教育の見直しを急ぐ必要があるのかもしれない。
やなせたかし氏のアンパンマンのマーチについて、ご本人は明確な解答を一切していないが、歌詞は戦死された弟のことを書かれているのではないかと思わずにはいられない。やなせたかし氏のアンパンマンは、大人になっても強烈な印象を残し続けている。その背景には、間違いなく戦争体験という重い現実が横たわっている。
歴史を後から見れば何とでも言えるが、結果から見ると、日本にとって満洲や朝鮮を守る必要は全くなかった。満洲や朝鮮の平和のために日本人がリスクを取る必要なんて全く無かったのである。しかし当時の人々は、そのような冷静な判断を下すことができない状況に置かれていた。
目を背けず、あの当時の現実を受け止めることが重要である。制作者が視聴者に突きつけるメッセージを、しっかりと受け取る必要がある。今の生ぬるい世の中との対比として、この戦争パートが機能することも期待されている。今は色々便利になったというのに、心をすさんでいる人が増え、悪どいことをする人が増えている状況を考えると、一体どうなったら世の中が平和でいられるのだろうかという疑問が湧いてくる。
戦後80年になり、戦争の記憶が忘れられていく一方である。あの大戦があって、今の日本国がある。明治から続いた軍国主義があっての戦争であり、愛国心だけで戦争などできるものではない。戦時中の国民の心理が、このドラマによってよく描写されることになるであろう。戦争パートはどれくらい続くのか分からないが、生きる喜びを早く感じられる時が来てほしいというのが、多くの視聴者の共通した願いである。
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