実の親子が初めて並んだ台所で生まれた温かなしじみ汁
第14話で最も視聴者の心を打ったのは、トキとタエが台所で一緒にしじみ汁を作るシーンでしょう。看病のために夕食を準備していたトキが手を怪我してしまい、そこへ駆けつけたタエが自分が作ると申し出たのです。これまで料理など一度もしたことがないお嬢様育ちのタエにとって、台所に立つこと自体が大きな挑戦でした。
トキの教え方は実に見事なものでした。料理の知識がまったくないタエに対して、彼女が理解できる言葉で優しく伝えていきます。味噌を溶く動作がわからないタエには「お茶を点てる要領で」と茶道に例え、しじみの大きさは「椿の花ほど」と華道を嗜むタエにもわかりやすい表現で説明しました。一つ一つの作業が終わるたびに「素晴らしいコロコロでございます」と褒める姿は、かつて教師を目指していたトキの才能を感じさせるものでした。もしあの道を進んでいたら、導き方が上手な素晴らしい先生になっていたことでしょう。
タエもまた一生懸命でした。慣れない手つきでしじみを洗い、水加減に戸惑いながらも、トキの助言を真剣に聞いて鍋をかき混ぜます。上手くできたら褒められるのを待つような表情を見せ、褒められればドヤ顔になるものの、すぐに武士の妻らしくないと思い直して澄ました顔に戻る。その絶妙な演技には、北川景子の確かな表現力が光っていました。
このシーンが特別だったのは、実はこれが本当の母と娘が初めて共に過ごした台所の時間だったからです。トキはまだ自分の出生について何も知りません。けれども、タエの心の中では母親としての情が溢れそうになっていました。「二度と母親の顔は見せまいと誓ったのに」と後に傳に語るタエの言葉には、長年封じ込めてきた母としての思いが凝縮されていました。娘と並んで台所に立ち、料理を教わるという何気ない時間が、タエにとってどれほど貴重で愛おしいものだったか。その心情が画面から溢れ出ていたのです。
しじみ汁は松野家にとっても雨清水家にとっても、家族の絆を象徴する料理として何度も登場してきました。この日のしじみ汁は、血のつながった親子が知らぬ間に心を通わせた証となり、視聴者の胸を熱くさせたのです。湯気が立ちのぼる鍋の前で、二人が交わした優しい時間は、これから訪れるであろう困難を前にした束の間の幸せでした。

三之丞が知ってしまった雨清水家に隠された出生の秘密
第14話のラストで、物語は大きな転換点を迎えました。三之丞が、トキの出生にまつわる重大な秘密を立ち聞きしてしまったのです。その夜、タエと傳は病床で二人きりになり、トキについて語り合っていました。傳はトキにおかゆを食べさせてもらったことを照れくさそうに話し、「危ないところじゃった。すまぬ」と口にします。するとタエも「それは私もです。松野家にあの子を授けた時、二度と母親の顔は見せるまいと誓ったのに」とつぶやきました。
傳は静かに言葉を続けます。「親子としてふるまえる、そんな日がいつか来ることを、わしは願っておる」。その言葉に対してタエは「長生きするんですよ」と優しく語りかけました。二人の会話には、長年胸に秘めてきた親としての思いが溢れていたのです。けれども、この切ない会話を、まさか三之丞が外で立ち聞きしているとは、二人とも気づいていませんでした。
障子の外に立っていた三之丞は、両親の会話を聞いて動揺した様子でぼうぜんと立ち尽くしていました。トキが実は自分の妹であること、そして両親が松野家に養子に出したこと。その事実を知った三之丞の表情は複雑で、何ともいえない寂しさと孤独が滲んでいました。板垣李光人の演技は、言葉を発することなくただ背中で語るというものでしたが、その後ろ姿だけで三之丞の心の動揺が伝わってくる見事なものでした。そしてとぼとぼとその場を後にする姿は、明日からの展開を予感させる不穏なものだったのです。
視聴者の反応も大きく、SNSには「三之丞聞いてた」「朝ドラ名物の立ち聞き」「三之丞の背中がさみしい」といったコメントが次々と投稿されました。三之丞はこれまで、長男の氏松が家を出て次男の武松が亡くなったことで、突然代理社長という重責を任されていました。しかし両親からはほとんど構ってもらえず、経営についても何も教わってこなかった不遇な立場にあったのです。
そんな三之丞にとって、養子に出されたトキが両親からこれほど深く愛されているという事実を知ることは、どれほど辛いものだったでしょうか。側にいる自分は無視され、外に出した娘を愛する両親。その理不尽さに、三之丞の心は揺れ動いたに違いありません。この秘密を知った三之丞が今後どのような行動に出るのか、視聴者は固唾を呑んで見守ることになります。トキ本人に真実を告げてしまうのか、それとも胸の内に秘めたまま苦しむのか。翌日の放送では、三之丞の決断が物語の行方を大きく左右することになりそうです。
ブラック化する工場で追い詰められていく工女たち
傳が病に倒れてから3週間、雨清水家の機織り工場は日に日に厳しさを増していました。病状が回復しない傳を心配させまいと、トキは工場の様子を尋ねられても「順調です」と答えていましたが、実際の現場は過酷な状況に陥っていたのです。傳が戻るまでに経営状況を回復させようと、検番の平井が工女たちに容赦ない指導を始めていました。
平井は「一日一反、一日一反」と棒を持ち出し、工女たちを馬車馬のように働かせていました。トキやチヨ、せんをはじめとする工女たちは休む間もなく働き続け、その疲労は限界に達しつつありました。さらに驚くべきことに、平井はトイレに行くことさえ許さないという非人道的な管理を行っていたのです。ある工女がご不浄に向かおうとすると、それを見咎めて厳しく叱責する場面もありました。たかだか数分の用足しすら認めない管理体制は、作業効率の低下を招くどころか、人間の尊厳すら否定するものでした。
仏の平井と呼ばれていた優しい検番は、いつの間にか鬼の平井へと変貌していました。これは傳への過度な忠誠心からくる暴走だったのかもしれません。トップである傳は人格者で寛容、工女たちにも優しい人物です。決して彼女たちを苦しめたいとは思っていませんし、叩くようなことなど考えもしないでしょう。けれども、その次の立場にいる平井が「自分が何とかしなければ」という思いから、モラルに欠けた行動に走ってしまったのです。このような構図は現代の職場でも実際に起こりうることで、視聴者の中には自分の経験と重ね合わせて胸を痛めた人も多かったことでしょう。
そしてついに、平井の暴力が工女に向けられる瞬間が訪れます。品質検査で失敗が続くせんに対して、平井の手が出てしまったのです。その瞬間を、久しぶりに様子を見に来た傳が目撃してしまいました。自分の工場で、大切な工女たちがこのような扱いを受けていたという事実に、傳は大きな衝撃を受けたに違いありません。病床にありながらも工場を訪れた傳の目に映ったのは、かつての温かな職場とはまったく異なる、殺伐とした現場だったのです。
明治時代の製糸業や機織り工場では、検番から工女への暴力は資料や証言に数多く残されています。特に不景気になると現場は殺気立った雰囲気になり、工場の閉鎖や倒産も珍しくありませんでした。社長は病床、跡取りは無能、現場指導者はパワハラという三重苦を抱えた雨清水家の工場は、まさに崩壊の危機に瀕していたのです。視聴者からは「観るのがしんどい」「パワハラが目について辛い」といった声も上がりましたが、これもまた当時の厳しい現実を描いた重要なシーンだったといえるでしょう。
史実から見える小泉セツのモデルとなった女性の波乱の人生
「ばけばけ」のヒロイン、トキのモデルとなったのは小泉セツという実在の女性です。セツは1890年に来日し「怪談」などの名作文学を残した小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーンの妻として知られています。彼女の生涯は、ドラマ以上に波乱に満ちたものでした。
セツは1868年2月4日に生まれ、生後わずか7日で生家の小泉家から、子供のいなかった親戚の稲垣家に養子に出されました。母のタエは松江藩家老の塩見家の娘で、14歳で小泉家に嫁ぎ、夫の湊との間に11人の子供をもうけています。セツは6番目の子供でした。しかし11人の子供のうち5人は早くに亡くなり、記録に残る兄弟は限られていました。自分が養子だと知って育ったセツは、定期的に小泉家に通っていたものの、兄弟たちには親近感がわかず、一緒に遊ぶこともなかったといいます。
父の湊は明治維新後、上級武家だった小泉家の家禄の一部を返上して、旧士族の子女たちの働き口となる機織り会社を立ち上げました。稲垣家が商売に失敗して借金を抱えた後は、セツもこの会社で働いています。けれども同業他社が増えたことで業績が悪化し、最終的に工場は倒産してしまいました。この経緯は、ドラマで描かれている雨清水家の工場の状況と重なる部分が多くあります。
小泉家に大きな不幸が訪れたのは1886年のことでした。セツが前田為二という男性を稲垣家の婿に迎えて結婚した年です。同年1月には次男の武松が19歳の若さで亡くなり、年末には長男の氏太郎が恋仲だった町娘とともに家族を捨てて逃げてしまいました。その間に湊もリウマチを患って働けなくなり、残された男子の藤三郎が小泉家を背負う立場となったのです。
しかし藤三郎は、ドラマの三之丞以上に問題のある人物でした。ちゃんと学校にも通わせてもらっていたものの、ずる休みして野山に行き、鳥を捕まえて飼育することだけに夢中になっていたといいます。一度、病床の湊が激昂してふがいない藤三郎を鞭で叩いたこともあったそうですが、彼の性格は直りませんでした。リウマチが悪化した湊は1887年5月30日に51歳で亡くなります。同じ年、セツの夫の為二も貧しすぎる稲垣家での暮らしを悲観して出奔してしまいました。
セツは1890年に為二と正式に離婚し、小泉家に復籍します。そして1891年に松江で英語教師をしていたラフカディオ・ハーンと結婚した彼女は、困窮していた母のタエたちに仕送りをして生活を支えました。史実通りの展開なら、ドラマのトキもいずれ戸籍上は雨清水家の人間に戻ることになるでしょう。そしてヘブンの働きによって、松野家も雨清水家も経済的に救われていくのです。セツの人生は、没落士族の娘として生まれながらも、最終的には家族を支える強い女性へと成長していく物語でした。その波乱万丈な生涯が、このドラマの土台となっているのです。
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