NHK連続テレビ小説『ばけばけ』におけるヘブンとイライザの関係とは、主人公レフカダ・ヘブンにとっての「魂の双子」とも呼べる精神的な絆で結ばれた特別な存在です。イライザ・ベルズランドは、ヘブンがアメリカ・ニューオーリンズの新聞社で働いていた時代の同僚記者であり、彼に日本行きを勧めた人物でもあります。二人の関係は単なる恋愛や友情という言葉では語り尽くせない、知性と感性を共有する深い精神的絆として描かれています。
2025年秋から放送が開始されたNHK連続テレビ小説第113作『ばけばけ』は、怪奇文学の巨匠・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をモデルとしたレフカダ・ヘブンと、その妻・小泉セツをモデルとした松野トキの夫婦愛を軸に物語が展開されています。しかし、このドラマにはもう一つの重要な人間関係が存在しており、それがヘブンとイライザ・ベルズランドとの関係性です。この記事では、ドラマ『ばけばけ』においてヘブンとイライザがどのような関係として描かれているのか、史実のラフカディオ・ハーンとエリザベス・ビスランドの関係とあわせて詳しく解説していきます。

朝ドラ『ばけばけ』でイライザ・ベルズランドが果たす役割とは
ドラマ『ばけばけ』において、イライザ・ベルズランドは主人公ヘブンの過去を象徴すると同時に、彼の精神的な支柱として極めて重要な位置を占めています。公式の人物紹介によれば、彼女はヘブンがアメリカ・ニューオーリンズの新聞社に勤務していた時代の同僚記者であり、聡明さと美貌、そして世界を飛び回るほどの行動力を兼ね備えた「パーフェクトウーマン」として描かれています。
ヘブンを日本へと導いた「始動者」としてのイライザ
イライザがドラマの中で果たす第一の役割は、物語の「始動者(カタリスト)」としての機能です。ヘブンに日本行きを強く勧めたのは他ならぬイライザであり、彼女の存在なくしてヘブンが松江の地を踏むことはなく、したがってヒロイン・トキとの出会いも生まれませんでした。この点において、イライザはトキの恋敵である以前に、トキとヘブンの運命を結びつけた仲介者という逆説的な立場にあります。
史実においても、エリザベス・ビスランドは1889年に雑誌『コスモポリタン』の企画で「世界一周早回り競争」に参加し、その旅の途中で日本に立ち寄りました。わずか2日間という短い滞在でしたが、横浜や東京の増上寺などを訪れた彼女は、その印象を「私もまたアルカディア(理想郷)にいた」と表現しています。帰国後に彼女が熱っぽく語った「日本の美」は、当時のアメリカでの生活や西洋文明の物質主義に疲弊していたハーンの心に火をつけました。ハーンが1890年に日本行きを決意した背景には、このエリザベスからの直接的な「推奨」が決定的な役割を果たしていたのです。
「伏せられた写真」に込められた演出の意図
ドラマにおけるイライザの第二の役割は、ヘブンにとっての「憧れ」と「喪失」の象徴としての存在です。松江での生活を描くシーンにおいて、ヘブンの書斎には常にイライザの写真が置かれていることが確認されています。しかし注目すべきは、そのフォトフレームが普段は伏せられた状態にあるという演出です。
この「伏せられた写真」という小道具の演出は、ヘブンの心理状態を雄弁に物語っています。直視するには眩しすぎ、かといって捨て去ることもできない存在。写真は、彼が日本での新しい生活、つまりトキとの生活に順応しようと努力する一方で、心の奥底では依然としてイライザという「西洋的知性」や「過去の情熱」に囚われていることを示唆しています。ヘブンが自分の過去を語った後、アメリカにいるイライザに想いを馳せるシーンが描かれますが、これは単なる未練ではなく、彼のアイデンティティの根幹に関わる複雑な感情の表れといえるでしょう。
シャーロット・ケイト・フォックスのキャスティングが持つ意味
イライザ役には、2014年の連続テレビ小説『マッサン』でヒロイン・エリーを演じたシャーロット・ケイト・フォックスが起用されています。このキャスティングは、単なる話題作りを超えた、作品構造に関わる深い意味を持っています。
『マッサン』のヒロインから『ばけばけ』のライバルへ
『マッサン』におけるエリーは、スコットランドから日本へ嫁ぎ、異文化の中で夫を支え続けた「内助の功」の体現者であり、日本の朝ドラファンにとっては「愛される外国人妻」のアイコンとなった存在です。その彼女が、今作『ばけばけ』では、ヒロイン・トキ(伝統的な日本の妻)の前に立ちはだかるかもしれない「西洋の自立したキャリアウーマン」として登場することになりました。
これにより、視聴者は無意識のうちにイライザに対して「かつてのヒロイン」としての親しみと、「現在のヒロイン(トキ)の脅威」としての緊張感を同時に抱くことになります。制作統括の橋爪國臣は、イライザを「ヘブンの憧れの同僚記者」とし、トキにも大きな影響を与える重要な役であると明言しています。
シャーロット自身が語るイライザ像
シャーロット・ケイト・フォックス自身もインタビューで、イライザは「自立した、強くて知的な女性」であり、「冒険することが好きな人」と分析しています。また、「すごく努力できる人」「環境に恵まれていたわけではなく、自らの努力で仕事をつかんだ人」とも語っており、これは単なる「お嬢様」ではなく、ハーンと同様に苦難を乗り越えてきた「同志」としての側面を強調するものです。
シャーロットにとって、今回の出演は特別な意味を持っています。彼女はインタビューでNHK大阪(BK)を「私の日本の家族」「原点」と呼び、「ただいま!」と言いたいと語っています。かつて日本に馴染もうと努力する妻を演じた彼女が、今回は世界を股にかける女性記者として、ヘブン(ハーン)という男の別の側面、すなわち知的欲求や放浪癖を刺激する存在を演じることで、ヒロイン・トキとの対比がより鮮烈に浮かび上がる構造となっています。
史実から読み解くハーンとエリザベス・ビスランドの「魂の双子」
ドラマの背景にある史実、すなわちラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とエリザベス・ビスランドの関係性は、フィクション以上にドラマチックであり、また複雑な様相を呈しています。彼らの関係は、単純な「恋愛」や「友情」といった既存の言葉では定義しきれない、魂のレベルでの共鳴でした。
ニューオーリンズでの運命的な出会い
二人の出会いは1882年の冬、アメリカ南部の古都ニューオーリンズに遡ります。当時32歳のハーンは『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長として、その異才を放っていました。一方のエリザベス・ビスランドは、ルイジアナ州の没落したプランテーション名家の出身で、当時まだ21歳でした。
特筆すべきは、二人の出会いが最初から「言葉」によって媒介されていたことです。エリザベスがジャーナリズムの道を志した直接のきっかけは、ハーンが執筆した記事「死んだ花嫁(The Dead Bride)」を読み、その美しくも退廃的な文体に深い感銘を受けたことでした。彼女はその感動に突き動かされるようにして、ハーンが勤める新聞社に詩を投稿し、やがて同僚として働くことになったのです。
唯一無二の理解者としてのエリザベス
職場での二人は、瞬く間に親密な関係を築き上げました。当時のハーンは、幼少期のトラウマや隻眼のコンプレックスから極度の人間嫌いであり、特に女性に対しては強い警戒心を抱いていました。しかし、エリザベスに対してだけは例外でした。彼女の並外れた美貌、男性優位の社会で自立しようとする強い意志、そして何よりハーンの難解な文学的嗜好を理解し共有できる知性は、ハーンにとって唯一無二の救いでした。
ハーンの長男・一雄は後に、父とエリザベスの関係を「小川のほとりの蛍のように、清らかで涼しい愛」と表現しています。これは、肉体的な情熱よりも、精神的な敬愛と美的感覚の共有が優先された、プラトニックでありながら極めて濃密な関係性を示唆しています。
ビスランド書簡に見る精神的恋愛の深層
二人の関係が最も色濃く反映されているのが、ハーンが生涯にわたってエリザベスに送り続けた膨大な数の手紙(ビスランド書簡)です。物理的な距離が離れ、互いに別のパートナーを得た後も、彼らの魂の対話は途絶えることがありませんでした。
親密な呼びかけに込められた感情
ハーンの手紙において、エリザベスへの呼びかけは多様かつ親密です。「親愛なるエリザベス(Dear Elizabeth)」から始まり、時には「私の妹(My dear Sister)」、さらには古代ギリシャへの憧憬を込めて「親愛なるグリークちゃん(My dear Greek)」といった愛称も用いられています。これらの呼びかけは、彼女を肉親以上の、魂の同胞として認識していたことを示しています。
文学的ミューズとしてのエリザベス
手紙の中でハーンは、時に友人という枠を超えた、官能的とも取れる表現を用いています。「私は歯を立てたい、そっとではあるがあなたの可愛らしい手首へ」といった一節や、「幽霊になってあなたの許を訪れる」といった幻想的な記述は、彼がエリザベスに対して抱いていた感情が、単なる友情以上のものであったことを強く示唆しています。
しかし、これは現実の不倫願望というよりも、彼女を文学的な「ミューズ(詩神)」として神格化し、崇拝に近い情熱を捧げていたと解釈すべきでしょう。ハーンは自身の未発表作品や、極めて個人的な思想の断片を、誰よりもまずエリザベスに送っています。「あなたには見せちゃならぬ代物です…私はそれを『女の香(Perfume of Women)』と名付けたのです」と書き送ったエピソードは、彼が自身の最もデリケートで背徳的な側面さえも、彼女ならば理解し受け入れてくれると信じていた証左です。
トキとイライザの対比構造が描く物語の深み
ドラマ『ばけばけ』の最大の魅力の一つは、ヘブン(ハーン)を巡る二人の女性、松野トキ(セツ)とイライザ(エリザベス)の鮮やかな対比構造にあります。彼女たちはそれぞれ、ヘブンという複雑な人格の異なる側面を支え、満たした存在です。
「生活」と「怪談」の大地としてのトキ
ヒロイン・松野トキは、没落士族の娘であり、ヘブンにとっての「日本」そのものです。彼女がヘブンに提供したのは、「生活の安らぎ」と「創作の源泉」でした。
ドラマにおいて、トキとヘブンの関係は「言葉の壁」から始まります。彼らは流暢な会話ではなく、「ヘルンさん言葉」と呼ばれる独特のピジン日本語(簡易化された文法と単語の羅列)を通じてコミュニケーションを図ります。例えば、「駅で待ち時間が長かったのでアイスクリームを買えなかった」という状況を「ステーション、たくさん、待つの時、あり、アイスクリーム、なし」と表現するような、たどたどしくも温かいやり取りです。この不完全な言語空間こそが、二人の間に他者が入り込めない親密な結界を作り出しています。
また、トキはヘブンにとっての「生きた図書館」です。日本語を読めないヘブンのために、彼女は古本屋を巡って怪談のネタを探し、それを自身の口で語り聞かせました。『雪女』や『耳なし芳一』といった傑作は、ヘブンの筆力とトキの語り部としての才能が融合して初めて生まれたものです。トキはヘブンの「現在」を支え、彼を日本の土着的な精神世界へと導く「大地の母」としての役割を果たしています。
「知性」と「理想」の彼方にいるイライザ
対照的に、イライザはヘブンにとっての「知性」と「理想」の象徴です。彼女とのコミュニケーションは、流暢かつ高度な英語によって行われます。ドラマの中でヘブンがイライザに宛てて書く手紙は、彼が日本での生活で見出した哲学的発見や、文明批評的な視点を吐露する場となっています。
トキとは「感覚」や「情動」を共有し、イライザとは「論理」や「分析」を共有する。この使い分けは、ヘブンが抱えるアイデンティティの分裂、つまり日本に同化したいと願いつつも、西洋的知性を捨てきれない知識人としての業を反映しています。イライザはヘブンの「過去」と「知的なプライド」を支える存在であり、彼が完全に「小泉八雲」になりきることを(逆説的に)食い止めているアンカーのような役割も果たしているといえるでしょう。
二人の女性の対比を整理する
ヘブンにとってのトキとイライザの違いを整理すると、以下のような対比構造が浮かび上がります。
| 要素 | 松野トキ | イライザ・ベルズランド |
|---|---|---|
| 象徴するもの | 日本・東洋 | アメリカ・西洋 |
| コミュニケーション | ヘルンさん言葉(ピジン日本語) | 流暢な英語 |
| 提供するもの | 生活の安らぎ・怪談の源泉 | 知的刺激・哲学的対話 |
| 共有する領域 | 感覚・情動 | 論理・分析 |
| 時間軸 | 現在・未来 | 過去・知的プライド |
| 役割 | 大地の母・語り部 | ミューズ・導きの星 |
この対比構造により、ヘブンという人物の複雑な内面がより立体的に描かれることになります。
松江という舞台に息づくイライザの存在
ヘブンとイライザの関係を語る上で欠かせないのが、舞台となる島根県松江市という土地の持つ意味です。松江は、イライザがヘブンを導いた約束の地であり、彼女の感性が間接的に息づいている場所でもあります。
イライザの眼差しを通した日本の風景
ヘブン(ハーン)が松江の風景を愛したのは、そこに彼が求めていた「古き良き日本」が残されていたからです。しかし同時に、彼の審美眼には、イライザと共有していた「西洋から見たオリエンタリズム」のフィルターがかかっていたことも見逃せません。
彼が著書『知られぬ日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan)』で描いた松江の夕日、宍道湖の静寂、そして古びた神社仏閣の佇まいは、彼がイライザへの手紙で熱っぽく語った風景そのものです。特に「日本の自然は、人間を愛する自然である」という彼の発見は、イライザが世界一周旅行の際に感じた直感と共鳴しています。つまり、松江の風景描写の一つ一つが、ヘブンからイライザへの「ラブレター」としての側面を持っていたといっても過言ではありません。
ドラマを彩る松江のロケ地と伝説
ドラマ『ばけばけ』の撮影が行われた松江市内の各所は、ヘブンとトキの愛の舞台であると同時に、ヘブンがイライザに伝えたかった「神秘の日本」の象徴でもあります。
松江城と人柱伝説について、ヘブンが「巨大な怪物のようだ」と形容した国宝・松江城には、築城の際に美しく踊り好きな娘が人柱にされたという悲しい伝説が残っています。この物語は、美と犠牲というテーマにおいて、ヘブンの文学的感性を強く刺激しました。
城山稲荷神社の石狐は、ヘブンがこよなく愛した、数千体の石狐が並ぶ神社です。彼は通勤途中にこの神社を訪れ、壊れかけた狐の像に深い愛着を示しました。この「異形の者への愛」は、彼自身が社会からの疎外感を持っていたことと無関係ではありません。
八重垣神社と鏡の池は、縁結びの聖地として知られています。トキ(セツ)はかつてこの神社で恋占いを行ったといわれており、ドラマでも重要なシーンとして登場するこの場所は、トキの純粋な願いと、それを受け入れる日本の神々の寛容さを象徴しています。
月照寺の大亀は、夜な夜な動き出して町を彷徨うという伝説を持つ巨大な石亀です。このユーモラスかつ不気味な怪談もまた、ヘブンとトキの会話を彩る重要なエピソードとなっています。
これらの場所を巡るヘブンの視線の先には、常に隣にいるトキの笑顔があり、同時に遠く海を隔てたイライザへの「報告」の意志がありました。松江という都市は、二人の女性への愛が交錯する重層的な空間として機能しているのです。
ハーン死後に明らかになったエリザベスの「真実の愛」
物語はヘブン(ハーン)の死をもって終わるわけではありません。むしろ、彼の死後にこそ、エリザベス・ビスランドの真実の愛が証明される出来事が史実として残されています。このエピローグこそが、彼女を単なる「過去の女」に留めない決定的な要素です。
遺された家族への献身的な支援
1904年、小泉八雲が心臓発作により54歳で急逝した後、残されたセツと4人の子供たちは経済的な困窮の危機に直面しました。この時、遠くアメリカから救いの手を差し伸べたのが、他ならぬエリザベスでした。
彼女はハーンが生前に残した「もし私に何かあったら家族を頼む」という言葉を、生涯の約束として守り抜いたのです。エリザベスは直ちにハーンの伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』の執筆に着手し、1906年にこれを出版しました。そして、その出版によって得られた印税の全額を、日本のセツに送金したのです。これは金銭的な支援というだけでなく、ハーンの名声を世界的に確立させ、彼の遺族が誇りを持って生きられるようにするための、ジャーナリストとしての彼女なりの戦いでした。
『思い出の記』の誕生と二人の女性の連帯
さらにエリザベスは、セツに対してハーンとの思い出を書き残すよう強く勧めました。文章を書くことに慣れていないセツを励まし、彼女が語るハーンの姿を記録させたのです。これが後に『思い出の記』として結実し、ハーンの家庭人としての素顔を伝える貴重な資料となりました。エリザベスはこの『思い出の記』を英訳し、自身の著書に収録して世界に紹介しています。
ここに、奇跡のような連帯が生まれています。ハーンを愛した二人の女性、日本人の妻とアメリカ人のソウルメイトが、ハーンという存在を中心にして手を取り合い、彼の魂と家族を守り抜いたのです。エリザベスはセツを嫉妬の対象ではなく、愛する友人が選んだ「守るべき聖域」として尊重し、セツもまたエリザベスの高潔な支援を感謝を持って受け入れました。
また、エリザベスはハーンの長男・一雄の教育についても深い関心を寄せ、「私の家を第二の家だと思ってほしい」とアメリカ留学を提案し、支援を申し出ています。彼女にとって一雄は、かつて愛した男性の分身であり、自身の人生において叶わなかった「ハーンとの家庭」の面影を見る存在だったのかもしれません。
トミー・バストウが演じるヘブンの孤独と二面性
『ばけばけ』という作品に命を吹き込む俳優たちの解釈も、この複雑な関係性を理解する上で重要な手掛かりとなります。ヘブン役のトミー・バストウは、役作りのために1年間を費やしてハーンの伝記や書簡を読み込み、彼の思考や癖(猫背や独特の視線)を身体に染み込ませたといいます。彼はヘブンを「繊細さと冒険者なところ」を併せ持つ人物と捉え、左目には白濁したコンタクトレンズを入れて撮影に臨んでいます。
バストウはインタビューで、ヘブンが「痛み」を抱えながらも世界を愛そうとする人物であると語っています。この「痛み」の根源にあるのが、幼少期の母との別離や、西洋社会での疎外感であるとすれば、イライザはその痛みを分かち合える唯一の理解者であり、トキはその痛みを包み込んで癒やす存在です。バストウの演技において、イライザへの手紙を書くシーンと、トキに微笑みかけるシーンの演じ分けに、ヘブンの魂の二面性が表現されることになるでしょう。
朝ドラ『ばけばけ』ヘブンとイライザの関係についてよくある疑問
ドラマ『ばけばけ』を視聴する中で、多くの方がヘブンとイライザの関係について疑問を抱くことでしょう。ここでは、そうした疑問に対する考察をお伝えします。
ヘブンはイライザとトキのどちらを本当に愛していたのか
この問いに対する答えは、「どちらか一方」という二者択一では語れません。ヘブンにとって、イライザは知性と理想を共有する「魂の双子」であり、トキは生活と創作を支える「大地の母」でした。彼は両者を愛していましたが、その愛の形は全く異なるものでした。イライザへの愛は精神的・知的な敬愛であり、トキへの愛は日常的・情緒的な絆でした。史実においても、ハーンは結婚後もエリザベスへの手紙を書き続けながら、セツとの間に4人の子供をもうけ、幸せな家庭を築いています。
イライザはなぜヘブンと結婚しなかったのか
史実において、ハーンとエリザベスが結婚しなかった理由は複合的です。1891年、ハーンが小泉セツと結婚したその同じ年に、エリザベスも弁護士のチャールズ・ウェットモアと結婚しています。エリザベスが世界的名声を得ていく過程で、二人の間には社会的な距離が生まれていたと考えられます。また、ハーンの極度の人間嫌いや、隻眼のコンプレックスが、エリザベスへの恋愛感情を現実の行動に移すことを阻んでいた可能性もあります。
トキはイライザの存在をどう思っていたのか
ドラマにおいてトキがイライザをどのように認識しているかは、物語の重要なポイントとなるでしょう。史実のセツは、エリザベスからの死後の献身的な支援を感謝を持って受け入れており、二人の間には敵対関係ではなく、互いへの敬意が存在していました。ドラマの後半で、もしイライザが来日する、あるいは彼女からの手紙が物語に大きく介入する展開があるとすれば、それは「西洋の恋人」対「日本の妻」という単純な対立を超えて、互いにヘブンという稀有な魂を愛した女性同士の、静かな連帯へと昇華していくことが予想されます。
明治という時代に咲いた、形を変えた「愛」の物語
『ばけばけ』におけるヘブン、トキ、イライザの物語は、単なる三角関係のドラマではありません。それは、明治という激動の時代において、一人の異才(ハーン)がいかにして「小泉八雲」へと変貌を遂げたか、その魂の錬金術の過程を描いたものです。
イライザ・ベルズランドは、ハーンに「日本」という新たな世界への扉を開かせ、彼の知性を刺激し続け、死後にはそのレガシーを守った「導きの星」でした。一方、松野トキ(小泉セツ)は、ハーンに「家庭」という大地を与え、怪談という物語の種を授け、彼を日本の土着へと根付かせた「豊穣の母」でした。
ヘブンは、この二人の女性のどちらか一方だけでは、決して完全な存在にはなり得ませんでした。イライザの西洋的知性と、トキの東洋的感性。この二つの翼があったからこそ、彼は国境や言語の壁を超え、『怪談(Kwaidan)』という世界文学の金字塔を打ち立てることができたのです。
ドラマ『ばけばけ』において、私たちが目撃するのは、嫉妬や独占欲を超越した、より高次元の愛の形です。ヘブンがイライザへの手紙に記した「I feel indescribably towards Japan(私は言葉にできないほど日本に惹かれています)」という言葉。その行間には、日本への愛と共に、その感動を誰よりも先に伝えたいと願う、イライザへの変わらぬ敬愛が滲んでいます。
朝ドラ『ばけばけ』をより深く楽しむためには、トキとの温かい日常の裏側で、太平洋を越えて交わされた魂の往復書簡があったことを知っておくとよいでしょう。そして、その手紙の主であるイライザ・ベルズランドという女性が、実は『ばけばけ』の物語を影で支える最大の功労者の一人であることを理解することで、視聴者のドラマへの理解と感動は、より一層深いものとなるに違いありません。










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