朝ドラ『ばけばけ』の史実を解説!小泉八雲と金縛りの関係とは

朝ドラ『ばけばけ』の史実を解説!小泉八雲と金縛りの関係とは

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とその妻・小泉セツをモデルにしたオリジナルドラマで、2025年9月29日から放送されています。小泉八雲は明治時代に来日したギリシャ生まれの作家であり、妻セツから聞いた日本各地の怪談や民話を『怪談』として世界に紹介しました。金縛りをはじめとする日本の民間信仰や妖怪文化は、八雲の作品を通じて海外にも広く知られるようになり、その史実に基づく物語が現代のドラマとして蘇っています。

『ばけばけ』というタイトルには「化ける」という意味が込められており、幕末から明治という暮らしや価値観が急速に変わっていく時代に取り残された人々の思いが、やがて素晴らしいものへと変化していく物語を描いています。本記事では、朝ドラ『ばけばけ』の史実的背景である小泉八雲の生涯、妻セツとの出会い、代表作『怪談』に収録された「耳なし芳一」「雪女」「むじな」などの名作、そして金縛りの科学的メカニズムと民間信仰における解釈まで、幅広く解説していきます。

朝ドラ『ばけばけ』の史実を解説!小泉八雲と金縛りの関係とは
目次

小泉八雲とは〜ギリシャからアイルランド、アメリカを経て日本へ

小泉八雲(本名:パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれた作家・日本研究家です。父チャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド出身の英国陸軍軍医補で、母ローザ・アントニウ・カシマチはギリシャ・キシラ島出身でした。「ラフカディオ」という名前は、生まれ故郷である「レフカダ」という島名にちなんでつけられています。

ハーンが生まれた当時、イオニア諸島はイギリスの支配下にありました。ギリシャ本土は1832年から独立を認められていましたが、イオニア諸島は当時まだイギリスの保護下に置かれていたのです。ハーンは二人兄弟の次男として生まれましたが、長男のロバートはハーンが生まれてから約1ヶ月後に亡くなっています。2歳でアイルランドに移り住んだものの、ハーンが4歳の頃、心を病んだ母親は1人でギリシャに帰ってしまいました。

家庭環境に恵まれなかったハーンは、幼少期に両親が離婚して捨てられる形となり、大富豪だった大叔母に引き取られました。厳格なカトリック教の教えを強いられた結果、逆にキリスト教嫌いになり、神話や伝説、民話、民間信仰、アニミズムといったものに興味を引かれるようになったのです。この経験が、後に日本の怪談や妖怪文化に深く共感する素地となりました。16歳のときには左目を失明するという悲劇にも見舞われ、感受性の強い少年だった彼は、外見への強いコンプレックスと孤独を抱えるようになりました。

小泉八雲のアメリカ時代と日本との出会い

17歳で大叔母が破産して経済的に困窮し、19歳で移民船に乗って渡米したハーンは、ホームレス同然の状態から印刷屋のワトキンに拾われ、印刷の知識を身に付けました。文筆業の才能を持っていたハーンは新聞社に就職してジャーナリストとなり、次第に名声を高めていきました。

1877年に大都市ニューオーリンズに移り、1884年にこの町で開催された万国産業綿花博覧会で、日本から出品された美術工芸品を通じて日本文化に触れたことが、ハーンと日本を結ぶ重要な契機となりました。さらに『古事記』の英訳版を読んだことで日本への関心がさらに高まり、来日を決意するに至ったのです。

小泉八雲の来日と松江での生活

1890年、40歳で来日したハーンは、新聞社との契約を破棄して、島根県松江の英語教師となりました。島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)における小泉八雲の月俸は百円で、当時の島根県では県知事に次いで2番目に高い月給でした。日本神話に特に興味を持っていた彼にとって、出雲神話の舞台である松江での生活は願ってもないことだったのです。松江のゴーストリー(霊的)な環境に刺激を受け、豊かな自然に魅せられました。

1891年、ハーンは松江の士族の娘・小泉セツと結婚しました。翌年に松江を去り、熊本の第五高等学校の教師となった後、1894年に神戸クロニクル社の記者となりました。そして1896年、45歳でイギリスから日本に帰化して「小泉八雲」となったのです。

「八雲」という名前は日本最古の和歌である「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌から取られています。出雲をこよなく愛したことから、この名前を選んだと言われています。

小泉八雲の晩年と功績

1904年(明治37年)、早稲田大学講師となりましたが、同年9月26日、心臓発作のため54歳で亡くなりました。ハーンが松江で暮らしたのは正確には1年2カ月と15日という短い期間でしたが、日本で最初に定住した土地として、セツとの出会いとともに彼の人生において最も重要な場所となりました。

小泉八雲は異なる人種や文化に対し、公平で愛のあるまなざし(「オープン・マインド」)をもって接していました。日本人が長い歴史の中で自然と共生してきたことに共感し、自然を敬う日本人の精神を世界に紹介した功績は大きいと評価されています。

小泉セツとは〜怪談を生んだ語り部の生涯

小泉セツは、小泉八雲の妻であり、『怪談』をはじめとする作品群の創作において欠かせない存在でした。慶応4年(1868年)、松江藩の由緒ある「上士」の家柄に生まれましたが、生後7日で親戚である「並士」の稲垣家に養女に出されました。幼い頃から物語を聞くのが大好きで、養母などから多くの話を聞いて育った経験が、後に夫を支える「語り部」としての素養を育むことになりました。

明治維新により士族は家禄を失い、稲垣家は没落して困窮したため、セツは11歳から生家である小泉家で機織の仕事をするようになりました。18歳で婿養子を迎えて結婚しましたが、夫は貧しさに耐えかねて1年で出奔してしまいます。22歳の時に正式に離婚して小泉家に復籍しました。

小泉八雲との出会いと結婚

1891年、家族を養うために英語教師の八雲の家の住み込み女中となったセツは、「怪談話が好き」という共通点から八雲とすぐに惹かれあい、結婚しました。日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせたセツには「語り部」としての才能があり、セツの物語に八雲はのめりこんだのです。

彼女は夫のために家族・使用人・近隣住民に話を聞き、本屋を何軒も周って資料集めに奔走しました。『怪談』をはじめとする再話文学に関してはセツの存在を抜きにしての創作は不可能だったと言われています。セツが集めた話を、八雲が独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品として蘇らせたのです。

小泉八雲夫人としての生涯

1904年(明治37年)に八雲が心臓発作で急逝した時、妻のセツはまだ36歳という若さでした。小泉セツは八雲の死後、再婚することはなく、夫が亡くなってから1932年(昭和7年)に64歳で亡くなるまでの約27年半という長い期間を、「小泉八雲夫人」として、そして4人の子供たちの母として、独身のまま力強く生き抜きました。

「小泉八雲夫人」として、夫に関する著作の出版や東大での講義録の刊行、国内外からの訪問客の接遇、そして自らも八雲との思い出を綴った「思い出の記」を執筆するなど、長男の一雄と共に、八雲の功績を世に伝えるという公的な役割も多忙にこなしました。セツの亡骸は、夫・小泉八雲が眠る雑司ヶ谷霊園の、その傍らに葬られています。

『怪談』の世界〜小泉八雲の代表作に収録された名作たち

『怪談』(かいだん、英: Kwaidan)は、小泉八雲が著した怪奇文学作品集で、1904年に出版されました。八雲の妻である節子から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを再話し、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせたものです。17編の怪談を収めた『怪談』と3編のエッセイを収めた『虫界』の2部からなり、「日本文学の古典」とも言える八雲の代表作として、日本の文化、伝統、習慣を世界に紹介する重要な役割を果たしました。

耳なし芳一〜平家の怨霊と琵琶法師の物語

「耳なし芳一」は『怪談』の中でも特に有名な作品です。赤間関にある阿弥陀寺に芳一という琵琶法師が住んでいました。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手でした。

ある夜すっかり暗くなった頃、芳一の前に侍が現れ、「主君のために、琵琶の弾き語りをしてほしい」と言われます。芳一は侍の後をついて行き、豪華な屋敷に連れていかれ、大勢の高貴な方々に囲まれて平家物語を語りました。盲目の琵琶法師である芳一は、実は平家の怨霊に気に入られていたのです。

このままでは命が危ないと知った和尚が、芳一を守るために身体中にお経を書きました。ところがこの時、耳にだけお経を書き忘れてしまったせいで、芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまいました。その日から芳一の元へ武者の怨霊が現れることはなくなり、ほどなくして傷もよくなりました。この一件から「耳なし芳一」と呼ばれるようになり、各地から芳一の琵琶を聞きたいという貴族らが集まり、好きな琵琶を弾きながら余生を過ごしたと伝えられています。

「耳なし芳一」の芳一は琵琶法師の明石覚一がモデルだとされることもあります。明石覚一は実在する琵琶法師で、『太平記』や公家の中原師守の日記にも登場します。明石覚一検校は南北朝時代の平曲(琵琶の伴奏による『平家物語』の語り物)の流派「一方流」を確立した人物です。小泉八雲の『怪談』に所収の「耳無芳一の話」で広く知られるようになりましたが、原作は近世の怪談本『臥遊奇談』(1782年刊)の「琵琶秘曲泣幽霊」です。「耳なし芳一」の呼び名は原典では「耳きれ芳一」とあり、民話の世界では「耳きり団一」の名で伝えられています。

雪女〜武蔵の国に伝わる異類婚姻譚

「雪女」も『怪談』を代表する作品の一つです。武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいました。茂作はすでに老いていましたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いでした。

ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにしました。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいました。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまいます。雪女は巳之吉を見て「お前を殺してやろうかと思ったがやめた。お前はまだ若い。けれど、今見たことは誰にも話してはならぬ。話せばお前の命はないぞ」と言い、吹雪の中へと消え去りました。

数年後、美しい女性が家の戸を叩きました。雪で立ち往生してしまったというその女性は「お雪」と名乗り、巳之吉は暖かく迎え入れました。二人は結婚し、幸せに暮らしました。しかし、吹雪の夜に思い出した昔の不思議な出来事を、お雪に話してしまいます。そしてお雪は子どもから父親を奪えないと考え巳之吉を殺せず、巳之吉の前から消えることを選びました。

小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子から聞いた話がもとになっていることがわかっています(英語版の序文に明記)。2002年には、青梅市千ヶ瀬町の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられました。雪女の起源は古く、室町時代末期の『宗祇諸国物語』には、法師が越後国に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかります。この物語は「鶴女房」(鶴の恩返し)と同型の典型的な「異類婚姻譚」です。

むじな〜のっぺらぼうと再度の怪

「むじな」は、東京赤坂通りの紀伊国坂を舞台にした怪談です。その坂は、日が暮れると人気がなくなり非常に寂しくなるので、夜は避けて遠回りしていました。また、むじながよく出ると噂されていました。

ある夜すっかり暗くなった紀伊国坂を一人の男が歩いていると女がうずくまって泣いています。男が声をかけても、女はただうつむいて泣くばかり。必死になだめ、なんとか顔をあげさせると、そこにいたのは目も鼻も口もない、のっぺらぼうでした。男は腰も抜かさんばかりに驚いて、あわてて逃げ出します。走りに走ってたどり着いたのが、四谷見附のあたりにある屋台の蕎麦屋でした。屋台に駆け込んだ男は、屋台の主人に事の顛末を語ります。主人は「それは怖ろしゅうございましたな、ところで、おまえさんが見たというのはこんな顔かい?」そう言った蕎麦屋の顔も目も鼻も口もなかったそうです。

むじなとはアナグマやタヌキのことを指しますが、人を化かすと考えられていました。「むじな」の内容としては「のっぺらぼう」の目撃譚となっています。怪談話には「再度の怪」という王道パターンがあり、これは「特定の登場人物を驚かせたあとに、再度同じ人物を驚かせる」というパターンです。小泉八雲の曾孫である小泉凡は、この話は巨大な化け物が夜道に現れて人を嚇かすという日本の伝承にヒントを得て、八雲自身の子ども時代の体験と結び付けて出来た八雲の創作だとしています。

ろくろ首〜首が飛ぶタイプの妖怪譚

『ろくろ首』は『怪談』に収録された一編で、八雲が日本各地の民間伝承をもとに書き下ろした短編です。「ろくろ首」と聞くと、夜中に首がビヨーンと伸びる姿を想像する方も多いですが、小泉八雲が描いた「ろくろ首」は首が「飛ぶ」タイプで、中国の「飛頭蛮」型のろくろ首です。

物語では、かつて武勇名高い武士だった磯貝武連は、主家が滅びたのち出家し、僧「囘龍」として諸国を行脚していました。ある晩、甲斐の山中で親切な木こりに出会い、小屋に泊めてもらうことになります。深夜、ふと目を覚ました囘龍は、なんと小屋の住人全員の胴体に「首がない」ことに気づくのです。『ろくろ首』の原話は「轆轤首悕念却報福話」で、『怪物輿論』巻之四(十返舎一九著画、1803年)に収録されています。

『知られぬ日本の面影』〜八雲の日本研究の集大成

『知られぬ日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan)は小泉八雲が来日後初めて著した作品集で、1894年に出版されました。『心』『骨董』『怪談』と並ぶ八雲の代表作で、出雲地方と松江でのエピソードを中心に描かれています。「美しい日本の愛すべき人々と風物を印象的に描いた」作品で、赴任先の松江を活写し「日本人の精神にふれた傑作」と評されています。

西洋人として初の正式昇殿を許された出雲大社の訪問記「杵築―日本最古の神社」や、微笑の謎から日本人の本質にアプローチする「日本人の微笑」などが収録されています。

金縛りとは〜科学的メカニズムと民間信仰における解釈

金縛りは医学用語で「睡眠麻痺」と呼ばれ、入眠時または睡眠からの覚醒時に、数秒から数分間、体幹と手足を自由に動かすことができなくなる現象です。日本では「金縛り」という別名がありますが、心霊現象ではなく、医学的な病名として「反復性孤発性睡眠麻痺」と呼ばれ、「レム睡眠に関連した睡眠時随伴症」の一種です。

金縛りが起こる科学的メカニズム

睡眠は、大脳を休息させる「ノンレム睡眠」と、身体は休んでいるが脳は活発に働いている「レム睡眠」が一晩の間に交互に訪れます。レム睡眠中は全身の筋肉が弛緩していて力が入らない状態ですが、このレム睡眠のときに突然脳だけが目覚めると睡眠麻痺が起こります。

通常の眠りはノンレム睡眠から始まり、最初のレム睡眠は入眠から約90分後に出現します。これが何かのミスでレム睡眠から眠りが始まると、入眠時幻覚や睡眠麻痺(金縛り)が起こるのです。

金縛り中の幻覚や恐怖感が生じる理由

レム睡眠時は、情動処理に関わる脳の扁桃体の活動が高まっているため、「恐怖感・不安感」といった情動が生じやすくなります。このために、心霊現象に遭遇したと感じてしまう人もいます。

金縛り中に周囲の部屋の様子が見えたと感じても、当人の目は閉じて眠っている状態です。見えている光景はすべて夢と同じく脳内の映像であることが実験で確認されています。

金縛りを誘発する主な原因

金縛りの主な原因として、睡眠不足・不規則な生活が挙げられます。精神的なストレスや過労も原因になると考えられており、心身ともに疲弊し、睡眠時間が確保できていないと金縛りは起こりやすくなります。

寝る体勢としては、仰向けで眠っているときに金縛りを経験することが多い傾向があります。遺伝が影響するとも言われているので、家族に金縛りになりやすい人がいる場合は金縛りになりやすい体質である可能性があります。また、睡眠障害の一つであるナルコレプシーという病気では、患者の2〜6割に睡眠麻痺(つまり金縛り)が発症するといわれています。

金縛りの発生頻度と対処法

一般的に30〜40%の人が一生に1回は経験していると言われています。年齢は10〜20代の若い世代に多く、性差はないと言われています。

金縛り(睡眠麻痺)は数秒から数分で治ります。落ち着いて呼吸をゆっくりと行えば、自然と解消されます。睡眠のリズムが整えば睡眠麻痺は発症しにくくなるため、規則正しい生活を送り、ストレスマネジメントを行うことが重要です。

金縛りの語源〜不動明王の秘術に由来

「金縛り」は本来は仏教用語であり、その転用です。不動明王が持つ羂索(けんさく)の威力により、敵や賊(転じて煩悩)を身動きできないようにする密教の修法である「金縛法」を由来とします。

もともと「金縛り」は不動明王の秘術から由来しています。不動明王の姿を拝見すると、右手に刀を持ち、左手に縄を持っています。右手の刀は三鈷剣と呼ばれ、悪魔や邪悪な煩悩、因縁を断ち切るためのものです。陰陽道や修験道、仏教の一部など日本文化から誕生した言葉であり、睡眠中に体が動かなくなる現象に対してこの言葉が当てはめられるようになりました。

金縛りと民間信仰の関係

日本では、金縛りは死者の霊魂によるものだとする観念があり、若い人の間でも一般的です。脳がしっかり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合があります。これは夢の一種であると考えられ、幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっています。

金縛りに対する日本と海外の認識の違い

金縛りは人類一般に見られる現象ですが、各国の研究結果では国やエリアによって出現頻度にばらつきがあります。金縛りを夢の一種として認識する傾向のある北米エリアでの出現率は低く、金縛り現象に特定の名前がある国々では出現率が高いとされています。

「金縛り」という言葉自体が日本国外では存在していないため、日本人が思う金縛りが外国人に起きたからといって、それは金縛りではなく、夜間に起こった不思議体験であり、悪夢の一種でしかないという考えに至ることがあります。このように、文化によって同じ現象に対する解釈が大きく異なることは興味深い事実です。

日本の妖怪・お化け・幽霊の文化〜怪談が愛される理由

お化け・幽霊・妖怪の違いとは

「お化け」とは、幽霊や妖怪など特異なものの総称とされています。また、得体の知れない怪しげなもの、異常に変化したもの、並はずれて大きなものを形容する場合もあります。

日本の怪談などに登場する幽霊や妖怪について、幽霊とは「死んだ人の霊」で、妖怪とは「奇怪現象や非日常的な存在」のことを指します。幽霊の多くは、この世に思いを残したまま死んだ者であるため、その望みや思いを聴いて、執着を解消して安心させることで、姿を消すとも言われています。

妖怪は、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、それらを起こす不思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のことです。「妖(あやかし)」「物の怪(もののけ)」などとも呼ばれています。

妖怪の歴史〜古事記から江戸時代まで

妖怪が登場したのは、奈良時代の歴史書『古事記』や『日本書紀』が初めと言われています。ヤマタノオロチ(大蛇の妖怪)や鬼などが登場し、当時の妖怪は神が堕落して恐ろしい姿に変化したものとして描かれました。

江戸時代に入ると、幽霊の存在は一気にポピュラーなものに変わっていきました。怪談は「怪談噺」として落語の演目となり、庶民の間で大流行しました。『雨月物語』や「四谷怪談」といった名作と言われる怪談は、この頃に確立されたのです。

妖怪が現れる時間〜逢う魔が時とは

妖怪は時をあまり選ばず出現するようですが、多いのは黄昏時だといわれています。「黄昏」を古くは「誰そ彼」といい、誰かいそうだけれど薄暗くてわからないので、「あれは誰だ」と問う様子からきています。妖怪(魔物)に逢いそうな時間ということで、「逢う魔が時」とも呼ばれています。

百物語〜怪談会の伝統

「怪談話が百話に達すると、本物の化け物が現れる」という言い伝えから、「百物語」と呼ばれる怪談会は、100本のろうそくに火を灯し、一話終わるごとに火を消していくスタイルを取りました。

木版印刷が普及し、妖怪の絵を誰でも安く入手できるようになると、妖怪を身近な存在に感じるようになり、妖怪をかわいく表現する絵も増えました。妖怪が着物の柄になったり、根付けになったり、子どもが遊ぶかるたやすごろくに描かれたりしました。このように、日本では妖怪は恐怖の対象であると同時に、親しみを持って楽しむ対象でもあったのです。

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の概要と見どころ

『ばけばけ』の基本情報

『ばけばけ』は、2025年(令和7年)度後期のNHK「連続テレビ小説」第113作で、2025年9月29日から放送されています。全125回の予定です。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻・小泉セツをモデルとしていますが、オリジナルのフィクションとして制作されています。脚本はふじきみつ彦、音楽は牛尾憲輔、主題歌はハンバート ハンバート「笑ったり転んだり」です。

『ばけばけ』のあらすじ

明治時代の松江を舞台に、主人公・松野トキは上級士族の家系に生まれ、怪談が大好きな女の子として描かれています。武士の時代が終わったことで父は事業を手がけるものの失敗し、トキは貧しい暮らしを強いられることになりました。世の中が大きく変わる中、トキは周囲の人々とともに時代に取り残され居場所を失いつつありました。

そんな中、トキのもとに仕事の話が舞い込んできます。その仕事とは、松江にやってきた外国人英語教師の家の住み込み女中でした。外国人の夫と共に「怪談」を愛し、西洋化が進む明治の日本で埋もれてきた「名もなき人々」に光をあて、代弁者として語り紡いだ夫婦の物語が展開されていきます。

『ばけばけ』の主なキャスト

主人公・ヒロインの松野トキ役は髙石あかりが演じています。朝ドラ史上3番目となる2892人のオーディションを勝ち抜きました。トキの夫ヘブン役(小泉八雲がモデル)はトミー・バストウが演じています。1,767人のオーディション応募者の中から決定し、連続テレビ小説初出演となります。

松野家の人々としては、トキの父・松野司之介役を岡部たかしが、トキの母・松野フミ役を池脇千鶴が、トキの祖父・松野勘右衛門役を小日向文世が演じています。

その他の重要な役として、松江随一の秀才で「大磐石」の異名を持つ錦織友一役を吉沢亮が、親戚のトキを幼いころから可愛がっている人格者・雨清水傳役を堤真一が、トキに武家の娘としての教養を厳しく教える雨清水タエ役を北川景子が、雨清水家の三男でトキの2歳下の雨清水三之丞役を板垣李光人が演じています。

『ばけばけ』のタイトルに込められた意味

タイトルの「ばけばけ」は「化ける」の意味で、幕末から明治という暮らしや価値観が急速に変わって(化けて)行く時代に取り残された人々の思いが、やがて素晴らしいものに「化けて」いく物語という意味が込められています。小泉八雲が愛した日本の怪談文化と、激動の時代を生きた人々の姿が重ね合わされているのです。

出雲神話と小泉八雲の深い縁

出雲神話の二つの流れ

出雲神話には二つの流れがあります。ひとつはスサノヲやオホクニヌシが活躍する『古事記』(712年)の出雲神話、もうひとつは出雲の風土や文化を集めた『出雲風土記』(733年)の国引き神話です。

ニューオーリンズ万博で日本文化と巡り合い、ニューヨークで英訳の『古事記』を読んで来日を決意したという八雲にとって、日本神話は特別な存在でした。出雲神話の舞台である松江での生活は、彼にとって願ってもないことだったのです。

小泉八雲と松江との絆

松江城の北側に、江戸時代の城下町・松江の姿を色濃く残す「塩見縄手」という通りがあり、その西端に小泉八雲記念館があります。記念館の隣には、八雲夫婦が5カ月生活した「小泉八雲旧居(旧称:ヘルン旧居)」もあります。

現在、松江では小泉八雲が再話した怪談と松江の魅力を再発見できるゴーストツアーが開催されており、語り部がいざなう怪談の世界を暗闇の中で巡ることができます。

小泉八雲と新宿区の友好関係

レフカダで生まれ新宿で亡くなった小泉八雲の縁により、1984年にレフカダに八雲の記念碑が建立され、翌85年に新宿区長がレフカダを訪問したことを契機として交流が活発化し、友好都市提携の協定調印に至りました。

小泉八雲が日本に残した遺産

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、ギリシャで生まれ、アイルランドで育ち、アメリカで記者として活躍した後、40歳で日本に渡り、54歳で亡くなるまでの14年間を日本で過ごしました。その間に、日本人の妻・小泉セツと出会い、彼女の「語り」を通じて日本の怪談や民話を世界に紹介しました。

『怪談』に収録された「耳なし芳一」「雪女」「むじな」「ろくろ首」などの作品は、今も世界中で読み継がれています。これらの作品は、単なる恐怖譚ではなく、日本人の死生観、自然観、そして人間の心の奥底に潜む感情を描いたものです。

金縛りのように、かつては超自然現象として恐れられていたものも、現代では科学的に解明されています。しかし、その科学的説明を知ってもなお、私たちは「怖い話」に惹かれ続けます。それは、人間の心の中に、合理では説明できない「何か」を求める気持ちがあるからかもしれません。

2025年のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』は、小泉八雲とセツの物語を通じて、明治という激動の時代を生きた人々の姿を描いています。「化ける」というタイトルには、時代に取り残されながらも、やがて素晴らしいものへと変化していく人々の姿が込められています。

小泉八雲が日本に残した遺産は、単なる文学作品にとどまりません。異文化を理解し、尊重し、そしてそれを世界に伝えることの大切さを、私たちに教えてくれています。八雲とセツの物語は、国境や言語を超えた愛と創造の物語として、これからも語り継がれていくことでしょう。

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