朝ドラ「ばけばけ」の熊本編における子どもの誕生は、史実では長男・小泉一雄(かずお)が明治26年(1893年)11月17日に熊本市坪井で生まれたことに基づいています。2025年後期から放送中のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、松江の没落士族の娘・小泉セツと異邦の怪談作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の魂の交流を描く物語で、2026年2月16日からいよいよ熊本編が始まります。熊本は八雲にとって「精神的な砂漠」と感じられた土地でしたが、この地で最初の子どもを授かったことで、彼は放浪の異邦人から日本に根を下ろす「父親」へと生まれ変わりました。
この記事では、朝ドラ「ばけばけ」の熊本編をより深く楽しむために、小泉八雲の子どもたちにまつわる史実を詳しくお伝えします。熊本での長男誕生のエピソードから、四人の子どもたちの系譜、独自の子育て、家族だけの特別な言葉「ヘルン言葉」まで、ドラマの背景となる家族の物語をお届けします。

朝ドラ「ばけばけ」熊本編とは — 2026年2月からの新章
NHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、2025年後期から放送されている朝ドラです。松江の没落士族の娘・小泉セツと、異邦の怪談作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の魂の交流を描いており、ドラマではそれぞれ「トキ」と「ヘブン」として登場しています。2026年2月16日からは物語の舞台が熊本へと移り、新たな章が始まります。
ドラマの現段階ではヘブンとトキの間に子どもはまだいませんが、視聴者の関心は熊本編でいつ、どのようにして新しい命が宿るのかという点に集まっています。史実において熊本時代は、八雲が単なる「日本文化の観察者」から日本の土に根を下ろす「父親」へと変貌を遂げた、人生で最も重要な転換期でした。ドラマのモデルとなった史実を知ることで、今後の展開をより深く味わうことができるでしょう。
小泉八雲はなぜ熊本へ移ったのか — その背景と子どもの誕生への道
小泉八雲が熊本へ移り住んだ理由は、経済的な事情にありました。明治24年(1891年)11月、八雲は愛してやまなかった「神々の国」出雲・松江を離れ、九州の熊本へと居を移しました。松江中学校での給与では、妻・セツと彼女の養父母を含めた大家族を養うことが難しかったため、より高給な第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師としての職を得たのです。
八雲にとっての熊本は、当初、決して好ましい土地ではありませんでした。松江の古き良き日本の情緒や静寂、神秘的な気配に魅了されていた彼にとって、近代化が進み軍都としての色彩が濃い熊本は「精神的な砂漠」のように感じられました。友人への手紙の中で「私の夢を壊す場所」と嘆き、日本情緒の欠如に苦しんだのです。第五高等学校の赤レンガの校舎や西洋化された街並みは、彼が日本に求めていた「美」とは対極にありました。
しかし、この「不毛の地」での生活を一変させたのは、家庭の中に芽生えた新しい命でした。外部環境の過酷さとは裏腹に、家庭内部における親密さと愛情の密度は極限まで高まっていきました。八雲は熊本という場所に不満を抱きながらも、セツとの暮らしの中で少しずつ心の安定を取り戻していったのです。
熊本で生まれた子ども — 長男・小泉一雄の誕生とその意味
朝ドラ「ばけばけ」の熊本編で最も注目すべき史実は、長男・小泉一雄(かずお)が明治26年(1893年)11月17日に熊本市坪井の手取邸で誕生したということです。当時、八雲は43歳、セツは25歳でした。結婚から約2年、待望の第一子の誕生は八雲にとって人生観を根底から覆す出来事となりました。
一雄が生まれた場所は、熊本市坪井にあった八雲の屋敷です。八雲が好んだ日本庭園こそありましたが、冬は底冷えのする広い日本家屋でした。この屋敷で産声を上げた一雄は、後に『父「八雲」を憶う』などの著作を残し、偉大な父の素顔を後世に伝える語り部となりました。
八雲は一雄を「神聖な侵入者」と呼び、書斎への自由な出入りを許しました。この言葉には、自分の領域に踏み込んできた存在でありながら、その侵入が神聖で歓迎すべきものであるという、八雲ならではの愛情表現が込められています。一雄の存在は八雲にとって日本への帰化(明治29年)を決意させる決定的な要因の一つとなりました。愛する息子に法的な保護と「日本人」としてのアイデンティティを残すため、八雲は英国籍を捨て、小泉家の入り婿として日本国民となる道を選んだのです。
一雄誕生の日に見せた八雲の素顔 — 「勉強」という名の祈り
セツの著書『思い出の記』には、一雄が生まれる日の八雲の様子が生々しく記録されています。このエピソードは八雲の繊細な人柄と家族への深い愛情を象徴するものであり、朝ドラ「ばけばけ」の熊本編でも描かれる可能性がある感動的な場面です。
陣痛が始まり、家の中が産婆や家族たちの出入りで慌ただしくなると、八雲は極度の緊張と不安に襲われました。妻が苦しむ声を聞くことの辛さに耐えられず、「こんな時には勉強しているのが一番よい」と宣言し、母屋から離れた書斎に籠もりました。しかし、それはあくまでポーズに過ぎませんでした。机に向かいペンを走らせるふりをしながらも、心の中では「私に難儀させて気の毒だ」「どうか無事で生まれて下され」と、神仏への祈りを何度も繰り返していたのです。
普段は「西洋の合理主義」と「東洋の神秘主義」の間を行き来する知の巨人も、この時ばかりは妻と子の無事を祈る一人の無力な夫であり、父親でした。そしてついに赤ん坊の産声が響き渡った瞬間、八雲は「一生になかったような、何ともいえない、一種妙な心持」を抱きました。それは単なる喜びを超越した、生命の神秘に対する畏怖の念でした。
孤独な異邦人であった彼が自身の血を引く存在をこの世に迎えた瞬間、彼は真の意味で「小泉八雲」になったと言えるでしょう。アイルランド系ギリシャ人として生まれ、アメリカを経て日本にたどり着いた放浪者が、熊本の屋敷で初めて「父」となったのです。この瞬間こそが、八雲の人生の中で最も大きな転換点だったと言っても過言ではありません。
小泉八雲の子どもは全部で何人 — 三男一女の全記録
八雲とセツの間には、最終的に三男一女、計四人の子どもが生まれました。熊本で生まれたのは長男の一雄のみであり、残りの三人はその後の東京時代に誕生しています。それぞれの子どもたちがいつ、どこで生まれたのか、その詳細を見ていきましょう。
次男・小泉巌(いわお)は、明治30年(1897年)2月15日に東京府牛込区市谷富久町で生まれました。八雲が東京帝国大学(現在の東京大学)で講師を務めていた時期の誕生です。「巌」という名前には、岩のように強固で健やかに育ってほしいという八雲の願いが込められています。長男一雄に対する神経質なほどの心配りに比べると、次男に対しては父親としての余裕を持って接していたと伝えられています。
三男・小泉清(きよし)は、明治32年(1899年)12月に同じく東京府牛込区市谷富久町で生まれました。清は八雲の持つ芸術的感性と繊細さを最も色濃く受け継いだ子どもと言われています。成人後は画家、そしてヴァイオリニストとして芸術の道を歩みました。父・八雲から受け継いだ「視る力」と「聴く力」が、その芸術的才能の源流にあったことは間違いありません。
長女・小泉寿々子(すずこ)は、明治36年(1903年)に東京府豊多摩郡大久保村(西大久保)で生まれました。八雲が53歳で亡くなるわずか一年前、52歳の時に生まれた待望の女の子です。男兄弟の中で唯一の娘として、八雲は彼女を「お月様」のように愛しました。しかし、八雲は自身の健康状態の悪化を自覚しており、この幼い娘が成長する姿を見届けられないことに深い悲嘆を抱いていました。
ここで注目すべきは、熊本から東京への移動の間に位置する「神戸時代」です。明治27年(1894年)に熊本を離れた八雲一家は神戸に移り住み、八雲は英字新聞『神戸クロニクル』の記者として多忙な日々を送りました。この神戸時代の約2年間には子どもは生まれていません。したがって、子どもの誕生は「熊本で1人(一雄)」、「神戸では0人」、「東京で3人(巌、清、寿々子)」という流れになります。
| 名前 | 生年月日 | 出生地 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 長男・一雄(かずお) | 明治26年(1893年)11月17日 | 熊本市坪井 | 後に父の回想録を執筆 |
| 次男・巌(いわお) | 明治30年(1897年)2月15日 | 東京府牛込区 | 岩のように強くとの願いを込めた命名 |
| 三男・清(きよし) | 明治32年(1899年)12月 | 東京府牛込区 | 画家・ヴァイオリニストとして活躍 |
| 長女・寿々子(すずこ) | 明治36年(1903年) | 東京府大久保村 | 八雲最晩年に生まれた唯一の娘 |
小泉家独自の言葉「ヘルン言葉」とは — 愛が生んだ家族の共通語
八雲の家庭で特筆すべきは、夫婦と子どもたちをつなぐ独自のコミュニケーションツール「ヘルン言葉(Hearn-kotoba)」の存在です。この言葉は、朝ドラ「ばけばけ」でも重要な要素となる可能性があります。
八雲は来日当初から日本語の習得に意欲を見せましたが、読み書き能力は限定的で会話も流暢とは言えませんでした。一方、セツも英語を話すことができませんでした。通常であればコミュニケーションの断絶を招く状況ですが、二人の間には独自の言語体系が自然発生的に生まれました。「ヘルン言葉」とは、日本語の単語をベースにしながら英語の文法構造を取り入れたり、助詞を簡略化したりした混成語(ピジン言語)です。この言葉は夫婦間だけでなく、子どもたちとの会話にも用いられました。
「ヘルン言葉」の大きな特徴として、助詞の「の」があらゆる文法的役割を担っていました。所有格、関係代名詞、接続詞のすべてを「の」で代用する傾向があり、たとえば「パパ、散歩、行く、の、と?」は「パパは散歩に行くのですか?」を意味しました。また、過去・現在・未来の時制の区別が曖昧で、文脈や身振り手振りで補完されていたのも特徴です。さらに、八雲が子どもたちに使う幼児語(「あんよ」「マンマ」など)がそのまま大人の会話にも定着し、家族だけの「共通語」となりました。
この言葉は文法的には破綻していても、小泉家の中では完璧に機能していました。互いの心を理解しようとする強い意志と愛情が、言葉の隙間を埋めていたからです。八雲が子どもたちに語りかける「ヘルン言葉」は、外部の人間には滑稽に聞こえたかもしれませんが、子どもたちにとっては父の温もりそのものでした。
八雲流の子育て — 西洋と東洋を融合させた熊本からの教育
八雲は日本を深く愛する一方で、子どもたちには広い世界を知る人間になってほしいと願っていました。そのため、家庭内の教育や生活習慣には意識的に西洋的な要素が取り入れられました。
特に長男の一雄に対しては、幼少期から英語教育が施されました。毎日英語で日記を書かせ、八雲が赤ペンで丁寧に添削したのです。そこには教師としての厳格さと、父としての慈愛が共存していました。食生活にも工夫がありました。当時の一般的な日本家庭では朝食に米飯と味噌汁が出されていましたが、小泉家ではパンと牛乳が取り入れられました。子どもたちの骨格や体格を良くしたいという八雲の配慮からです。外出時には子どもたちに洋服を着せることが多く、八雲自身も洋装で、ハイカラな親子が手をつないで散歩する姿は近所でも評判でした。
八雲の教育で見逃せないのが、「怪談」を通じた情操教育です。八雲は子どもたちに怪談を語り聞かせる際、単に怖がらせるだけでなく、そこに潜む「因果応報」や「約束の重要性」を説きました。「恨みを抱いて死んだ者が復讐の証として石を噛む」といった物語を通じて、「人の心を傷つけることの罪深さ」や「死者の魂に対する畏敬」を教えたのです。
八雲は子どもを「守るべき無知な存在」としてではなく、「人間の業や悲しみを理解できる魂」として対等に扱いました。この語りは子どもたちの想像力を極限まで刺激し、目に見えない世界への感受性を育みました。後に芸術家となった三男・清や文筆活動を行った長男・一雄の感性は、こうした父の教育に根ざしたものだったのです。また、熊本時代の同僚であった漢文教師・秋月悌次郎(あきづき ていじろう)の存在も、八雲の教育観に大きな影響を与えました。元会津藩士であり戊辰戦争を戦い抜いたこの老学者を、八雲は「神のような人」「完全なる日本人」として崇拝しており、息子には西洋の知識と秋月のような日本の武士道精神の両方を兼ね備えた人間になってほしいと願っていたのです。
熊本時代の心温まるエピソード — 朝ドラ「ばけばけ」の背景を深く知る
朝ドラ「ばけばけ」の熊本編をより豊かに楽しむために、史実に残るいくつかの印象的なエピソードをご紹介します。これらのエピソードからは、八雲という人物の人間味あふれる姿が浮かび上がってきます。
横浜から持ち帰った「おもちゃの山」は、八雲の深い愛情を物語る逸話です。一雄が生まれた翌年の明治27年、八雲は夏休みを利用して一人で横浜へ旅行に出かけました。当時の横浜は西洋文化の玄関口で、珍しい輸入品があふれていました。八雲は、まだ0歳児で這い這いもままならない一雄のために、到底遊べないような精巧なおもちゃを大量に買い込みました。その量は抱えきれないほどで、熊本の自宅に帰り着いたとき、セツは呆れつつも夫の子どもじみた興奮と愛情の深さに微笑んだといいます。幼少期に両親と離別し家庭の温かさを知らずに育った八雲にとって、息子におもちゃを与える行為はかつての自分自身を癒やす行為でもあったのでしょう。
熊本の古井戸と「過剰な心配」も印象的なエピソードです。熊本の住居(手取邸)の庭には古い井戸がありました。一雄が生まれると、八雲は「もし一雄があの井戸に落ちたらどうするのか」と心配し、セツや女中たちに井戸の周りには絶対に子どもを近づけないよう厳命しました。八雲は十代の頃、遊戯中の事故で左目の視力を失っています。このトラウマから、子どもたちの身体的な安全に対して神経質なほど敏感でした。尖ったもの、高い場所、そして水辺から「神聖な侵入者」をあらゆる危険から守ろうと必死だったのです。
最晩年の寿々子への「アン、ドゥ、トロワ」は、東京時代のエピソードですが八雲の多文化的な背景を示す美しい逸話です。八雲が亡くなる直前、まだ言葉も話せない末娘の寿々子をあやす際、英語でも日本語でもなくフランス語を使いました。膝に乗せ「Un, deux, trois(アン、ドゥ、トロワ)」と優しく数えながら揺らしたと伝えられています。アイルランド人の父とギリシャ人の母を持つ八雲は、多感な青春時代をフランスで過ごしました。死期を悟った彼が最愛の娘にフランス語で語りかけたことは、人生の旅路が最終的に「家庭」という安息の地に辿り着いたことを象徴しています。セツに対し「この子が大きくなったら、パパがどれほど可愛がっていたか伝えておくれ」と遺言のように何度も頼みました。
朝ドラ「ばけばけ」熊本編の今後の注目ポイント
朝ドラ「ばけばけ」は2026年2月16日から熊本編へと突入します。これまでの史実を踏まえると、いくつかの点が特に注目されます。
まず注目されるのは、「待つ時間」の描写です。史実では熊本に来てから一雄が生まれるまで2年の歳月がありました。異文化の中での孤独や周囲からのプレッシャー、そして夫婦の絆が深まっていく過程がどのようにドラマチックに描かれるかが見どころです。
次に、熊本の生活環境の再現にも期待が高まります。八雲が不満を漏らした熊本の寒さや家の構造の中で、セツがいかにして夫のために快適な空間を作り上げ、その中で出産を迎えるのか。ドラマの「トキ」がこの役割をどう演じるかは、視聴者の大きな関心事となるでしょう。
さらに、「怪談」収集と子育ての関わりも見逃せないポイントです。八雲の代表作『怪談』の執筆は東京時代が中心ですが、その素地は熊本時代から形成されていました。子どもをあやしながら、あるいは子どもの寝顔を見ながら、彼がどのように日本の霊的な世界へと想像を巡らせていったのか。ドラマでの描写が楽しみです。
まとめ — 小泉八雲が熊本で見つけた「父親」としての子どもへの愛
小泉八雲という人物を語るとき、『怪談』や『知られざる日本の面影』といった著作に目を向けがちです。しかし、彼が遺した最も偉大で最も情熱を注いだ「作品」は、彼自身の家族でした。
熊本という、彼にとっては決して理想的ではなかった土地で産声を上げた長男・一雄は、放浪の作家であったハーンを「日本の父・小泉八雲」へと変えました。そして東京で生まれた巌、清、寿々子という子どもたちは、八雲の多面的な才能と愛情を受け継ぎ、それぞれの人生を歩みました。
朝ドラ「ばけばけ」の熊本編は、単なる転勤の物語ではありません。一人の孤独な魂が愛する人との間に「血のつながり」を見出し、永遠の居場所を見つけるまでの再生の物語なのです。2026年2月16日からの放送で、まだ見ぬ我が子の誕生を待ちわびるヘブンの姿に、史実の八雲の「勉強と言いながら祈り続けた姿」を重ね合わせることで、物語はより一層の深みを持って胸に響くことでしょう。










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