2025年NHK連続テレビ小説「ばけばけ」に登場するマーサのモデルとなった実在の人物は、マティ・フォリー(本名アリシア・フォリー)というアフリカ系アメリカ人女性です。マティは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の最初の妻であり、八雲の死後1906年に「自分こそが正当な未亡人である」と主張して遺産裁判を起こしましたが、当時のオハイオ州法により結婚が無効とされ敗訴しました。その後、マティは息子家族と暮らしながら1913年にシンシナティで生涯を閉じています。
朝ドラ「ばけばけ」は、小泉八雲の妻・小泉セツをモデルにした物語であり、八雲との出会いから日本文化を世界へ発信する「共作者」としての姿が描かれる予定です。しかし、その物語の影には、アメリカで八雲と結婚しながらも法と社会の壁に阻まれたマティという女性の存在がありました。本記事では、ドラマでは描かれにくいマティ・フォリーの史実、特に1906年の遺産裁判とその後の人生について詳しく解説します。マティの人生を知ることで、八雲という作家の多面性と、時代に翻弄された二人の妻の運命がより深く理解できるでしょう。

マティ・フォリーとは何者だったのか
マティ・フォリーは、小泉八雲がアメリカで新聞記者として活動していた時代に出会い、結婚した最初の妻です。彼女は1848年頃、ケンタッキー州メイズビル近郊のタッブ家が所有する農園で生まれたとされています。いわゆる「ムラート(混血)」であり、白人の父と奴隷の母の間に生まれました。南北戦争を経て奴隷身分から解放された彼女は、幼い息子ウィリアム・ルイス・アンダーソン(1868年生)を抱えてオハイオ州シンシナティへと移り住みました。
シンシナティでマティが得た職は、八雲が滞在していた下宿屋の料理人でした。当時のシンシナティは、南部と北部の境界に位置する商業都市であり、解放された元奴隷のアフリカ系アメリカ人や、アイルランド系などの移民が流入し、人種と階級が複雑に入り組んだ街でした。しかし、それは決して融和を意味するものではなく、「ブラック・コード(黒人取締法)」の余韻が残る中、社会的な分断線は明確に引かれていました。
八雲とマティの出会いと魂の共鳴
若き日のラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)は、19歳でアメリカに渡り、極貧の中でジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせていました。彼は幼少期の事故による左目の失明と強度近視という身体的コンプレックスを抱え、アングロサクソン中心の主流社会に対して強い疎外感を持っていました。そのため、彼は自然と社会の周縁に生きる人々、「バックタウン」と呼ばれる黒人居住区や貧民街の住人たちに親近感を抱き、彼らの文化やフォークロアに没入していきました。
八雲とマティの出会いは、単なる下宿人と使用人の関係を超えたものでした。内気で人付き合いの苦手な八雲は、他の下宿人との会話を避け、厨房でマティと過ごす時間を好んだといわれています。マティが語る奴隷時代の苦難、南部のフォークロア、そして彼女が主張する「幽霊を見る能力」は、怪奇と幻想を愛する八雲の想像力を激しく刺激しました。
八雲が後に記した記事において、彼はマティをモデルにしたとされる女性の声を「低く、柔らかなメロディ」と評し、その語りに「魅惑的な魔力」があったと記しています。読み書きのできないマティでしたが、口承文学的な語りの才能において、彼女は八雲にとって最初の「ミューズ」であり、後のセツに通じる「異界への案内人」でした。彼らの関係は、孤独な魂同士の共鳴から始まったのです。
1874年の「違法な結婚」という衝撃的事実
1874年6月14日、八雲とマティは結婚を決意しました。しかし、それは当時のオハイオ州の白人社会においては、想像を絶するタブーへの挑戦でした。二人の結婚式は、シンシナティのアフリカ系アメリカ人コミュニティの中でひっそりと行われました。式を執り行ったのは、アフリカ系エピスコパル教会のジョン・キング牧師であり、証人として署名したのはロッティ・クリネイとメアリー・フィールドという二人の黒人女性でした。
白人の知人や友人が一人も参列していないこの式の構成自体が、二人の結婚がいかに孤立無援のものであったかを物語っています。八雲にとって、この結婚は主流社会への決別宣言であり、マティにとっては、元奴隷という身分を超えて一人の人間として愛される喜びの瞬間であったはずです。
しかし、二人の前には「法」という巨大な壁が立ちはだかっていました。当時のオハイオ州には、1861年に制定された「異人種間結婚禁止法」が存在していました。この法律は、純血の白人がアフリカ系の血を引く者と結婚することを明確に禁じており、違反した婚姻は「無効」とみなされました。八雲はこの法律の存在を知っていた可能性が高いですが、彼は自身の信念に従い、この法を無視しました。
社会からの制裁と結婚生活の破綻
結婚の事実はすぐに露見しました。1875年8月、八雲が当時敏腕記者として活躍していた『シンシナティ・エンクワイアラー』紙の編集部は、彼が黒人女性と結婚し同居していることを知るや否や、激しい拒絶反応を示しました。同紙は八雲を「嘆かわしい不道徳な習慣」に耽っているとして、即座に解雇しました。人種の壁を越えた愛は、当時のジャーナリズム業界においても「倫理的逸脱」とみなされたのです。
職を失った八雲は、ライバル紙である『シンシナティ・コマーシャル』の編集者ムラート・ハルステッドに拾われることになりましたが、この事件は八雲の心に深い傷を残し、シンシナティという街への嫌悪感を決定的なものにしました。
社会的制裁を受けてまで貫いた結婚生活でしたが、その実態は長くは続きませんでした。失職による経済的困窮に加え、二人の性格の不一致が表面化し始めたからです。八雲は知的な探求心が強く、常に新しい物語や題材を求めていましたが、教育を受けていなかったマティは、八雲の知的な欲求を満たすパートナーではあり得ませんでした。
結局、二人の同居生活は約3年で破綻しました。1877年、マティはインディアナポリスへと去り、二人の関係は事実上終了しました。しかし、ここで重要なのは、二人が「法的に離婚」した記録が存在しないことです。そもそも、オハイオ州法上、彼らの結婚は「最初から存在しないもの」であったため、離婚手続きそのものが不要、あるいは不可能であったという認識が、当時の八雲にはあったのかもしれません。
1877年の法改正という皮肉な運命
運命の皮肉というべきか、マティが去った1877年、オハイオ州は異人種間結婚禁止法を撤廃しました。もし二人があと数年関係を維持し、法改正後に再手続きを行っていれば、あるいは法改正によって過去の婚姻が遡及的に認められる余地があれば、二人は法的に正真正銘の夫婦となっていた可能性があります。しかし、歴史の歯車はすれ違ったまま回転を続けました。
独り身となった八雲は、その後ニューオーリンズへと移り住みました。そこでの約10年間、彼はクレオール文化に魅了され、文学的才能を大きく開花させました。そしてマルティニーク島での滞在を経て、1890年、運命の地・日本へと旅立つことになりました。日本への旅立ちは、彼にとって新天地への希望であると同時に、アメリカでの苦い記憶からの逃避でもありました。彼は日本で「過去」を封印し、新たな人生を始めようとしていたのです。
八雲の日本帰化と法的防壁の構築
1890年に来日した八雲は、翌1891年、島根県松江市の尋常中学校に英語教師として赴任しました。そこで彼は、小泉セツと出会いました。セツは松江藩士の娘でしたが、家は没落し、家族を支えるために苦労を重ねていました。彼女は八雲が求めていた「古き良き日本」の体現者であり、礼節深く、忍耐強く、そして何より、豊かな怪談や伝承の知識を持っていました。
八雲にとってセツは、単なる妻以上の存在となりました。日本語の読み書きが不自由な八雲に対し、セツは資料を読み解き、物語を語って聞かせる「共同研究者」でした。マティ・フォリーとの関係において欠けていた「知的・精神的な共有」が、セツとの間には成立していたのです。
1896年、八雲は日本国籍を取得し、「小泉八雲」と改名しました。西洋人が日本に帰化することは当時極めて稀であり、その決断の背後には、彼なりの切実な「法的戦略」がありました。最大の理由は、セツと子供たちへの遺産相続を確実にすることでした。もし彼が英国籍のまま日本で死亡した場合、その遺産相続には英米法が適用される可能性がありました。そうなれば、アメリカに残してきた「過去の妻」マティの存在が浮上し、セツたちの権利が脅かされる恐れがありました。
八雲は、日本の「家制度」の中に自らを完全に取り込むことで、日本の法律の下でセツを唯一無二の「正妻」とし、子供たちを「嫡出子」として法的に守ろうとしました。彼が選んだ「八雲」という名は、出雲の枕詞「八雲立つ」に由来しますが、そこには「この地に骨を埋め、家族を永遠に守る」という強い意志が込められていました。
1904年、八雲の死と忍び寄る影
しかし、八雲の心からはアメリカの影が完全に消えることはありませんでした。彼は友人への手紙の中で、自身の死後、家族がどうなるかについて度々不安を漏らしています。特に、著作権という国境を越える資産の管理については、彼の死後に発生するであろうトラブルを予見していたかのような慎重な姿勢を見せていました。
そして1904年9月、狭心症により54歳で急逝した八雲が遺したのは、世界的な名声と、未解決の「過去」でした。
1906年の遺産裁判の勃発
八雲の死から2年近くが経過した1906年7月、アメリカの新聞各紙に衝撃的な見出しが躍りました。『シンシナティ・エンクワイアラー』は7月14日付で「黒人女性がラフカディオ・P・ハーンの合法的妻であると主張」と報じました。
原告は、シンシナティに住むマティ・フォリーでした。彼女は弁護士を立て、オハイオ州ハミルトン郡の裁判所に対し、八雲の遺産分配を求める訴えを起こしたのです。彼女の主張の骨子は、1874年に牧師立会いのもとで結婚式を挙げた事実があること、その後正式な離婚手続きは行われていないこと、したがって自分こそが法的な妻であり、日本にいるセツとの結婚は重婚にあたるため遺産を受け取る権利があるというものでした。
当時、八雲の著作はアメリカでベストセラーとなっており、その印税収入は決して無視できない金額でした。貧しい生活を送っていたマティにとって、これは正当な権利の行使であり、生活を変える最後のチャンスでした。
当時のメディアの扇情的な報道
この裁判は、当時のアメリカ社会の人種的偏見を背景に、格好のゴシップとして消費されました。新聞メディアは、八雲の「エキゾチックな」生涯を強調し、二人の妻を肌の色で対比させました。『イブニング・ガゼット』紙は、1906年8月3日付で「死んだ法律が黄色と黒の未亡人の戦争を終わらせる」という、現代の視点から見れば極めて差別的かつ扇情的な見出しを掲げました。
記事の中では、マティが「ムラート」であること、元奴隷であったことが強調され、一方で遠い日本のセツは「サムライの娘」として神秘化されました。この対比は、八雲という作家がいかに常軌を逸した人生を送ったかを強調する演出として機能しました。
裁判の争点と判決
裁判の争点は一点に絞られました。「1874年の結婚は有効だったのか」です。マティ側は、1877年に異人種間結婚禁止法が撤廃されたことを根拠に、二人の結婚は事後的に有効になった、あるいは内縁関係として認められるべきだと主張したと考えられます。
しかし、裁判所の判断は冷徹でした。判決の根拠となったのは、皮肉にも二人が愛を誓った1874年当時に存在し、八雲を苦しめたあの差別法でした。裁判所は、1874年当時のオハイオ州法は異人種間の結婚を禁じていたため、二人の結婚は「成立後に破綻した」のではなく、「最初から法的に存在しなかった」と認定しました。その後1877年に法が撤廃されたとしても、無効な契約が自動的に有効になるわけではなく、二人は法撤廃後に改めて結婚手続きを行っておらず、むしろその年に別居しています。法的な結婚が存在しない以上、離婚の必要もなく、マティに相続権は発生しないとされました。
裁判所は、マティ・フォリーの訴えを全面的に退けました。これにより、八雲の全遺産と著作権収入は、日本の法的に正当な妻である小泉セツと子供たちのものとなることが確定しました。
「死んだ法律」がもたらした歴史の皮肉
この判決には、歴史の深い皮肉が込められています。かつて若き八雲とマティの生活を破壊し、彼を職から追放した「悪法」が、30年の時を経て、今度は八雲が愛した日本の家族を経済的困窮から救う「守護者」として機能したのです。
もし1874年当時、オハイオ州がもう少し寛容で、二人の結婚を法的に認めていれば、1906年の時点でマティは「正式な妻」として強力な権利を持ち、遺産のかなりの部分を持っていった可能性があります。そうなれば、小泉家の生活は困窮し、長男・一雄の教育や、セツによる回想録の執筆環境も大きく損なわれていたでしょう。八雲を苦しめた差別が、巡り巡って彼の遺族を救うという、法と運命の残酷なパラドックスがここにあります。
遺産管理人たちの尽力
この裁判の勝利の背後には、八雲の遺言執行者たちの尽力がありました。特に、八雲の親友であり、後に横浜グランドホテルの支配人となる米海軍軍人ミッチェル・マクドナルドは、小泉家の経済的安定のために奔走しました。彼は八雲の死後、アメリカでの法的手続きや著作権管理を主導し、マティの訴訟に対しても強力な弁護団を組織して対抗したと考えられます。
また、八雲の伝記作家であり、かつて八雲と親しい関係にあったエリザベス・ビスランドも、小泉家を擁護する立場を取りました。彼女は八雲の生涯を綴る中で、マティとの結婚を「若気の至り」あるいは「法的に無効なエピソード」として位置づけ、セツこそが唯一の正統な妻であるという物語を構築することに貢献しました。
マティ・フォリーのその後の人生
裁判に敗れたマティ・フォリーは、その後どのような人生を歩んだのでしょうか。史実は、彼女が最後まで運命に翻弄され続けたことを示しています。
マティの人生には、もう一つの悲劇的な「結婚」がありました。八雲と別れた後、彼女のもとには「ラフカディオ・ハーンが死んだ」という誤った情報が届いた時期があったようです。この誤報を信じた彼女は、ジョン・クラインタンクという男性と再婚しました。
しかし、後に八雲が日本で作家として生存し、名声を得ていることが判明すると、この再婚もまた法的な混乱の中に投げ込まれました。八雲との結婚が無効であるならばクラインタンクとの結婚は有効なはずですが、当時の情報の錯綜や社会的な混乱により、彼女の立場は不安定なままだったと推測されます。一部の記録では、八雲生存のニュースによってクラインタンクとの結婚も無効とされたとありますが、彼女はその後も「クラインタンク」の姓を名乗り続けました。
マティの晩年と1913年の死
1910年の国勢調査には、マティの晩年の姿が記録されています。彼女はシンシナティで、息子ウィリアム・ルイス・アンダーソンとその妻とともに暮らしていました。記録された名前は「Klientunk」(Kleintankの誤記)でした。かつて八雲と夢を語り合った料理人は、老いて病に侵されながら、息子の家族に支えられて静かに暮らしていました。
1913年11月21日、マティ・フォリー(記録名はAlethea Kleintank)はシンシナティの自宅でその生涯を閉じました。享年はおよそ65歳前後と推測されます。死因は糖尿病による合併症と、壊疽による脚の切断手術後のショック死という、壮絶なものでした。
彼女の死は、八雲の死のように世界中で報じられることはありませんでした。彼女はシンシナティの墓地に埋葬されましたが、その墓標が「文豪ラフカディオ・ハーンの妻」として記憶されることはありませんでした。彼女は法的には「誰の妻でもなかった」女性として、歴史の闇に消えていったのです。
現代文学におけるマティの再評価
長い間、八雲研究においてマティ・フォリーは「触れてはならない過去」あるいは「不幸なエピソード」として扱われてきました。しかし、21世紀に入り、ジェンダーや人種、ポストコロニアルの視点から、彼女の存在を再評価する動きが生まれています。
その象徴的な作品が、ベトナム系アメリカ人作家モニク・トルンによる小説『The Sweetest Fruits』です。この作品は、八雲の人生を、彼を取り巻いた三人の女性(母ローザ、妻マティ、妻セツ)の視点から語り直すものです。
トルンは、マティを単なる「無学な元奴隷」としてではなく、八雲に「語るべき物語」を与え、彼の文学的感性を育んだ重要なパートナーとして描きました。八雲がシンシナティ時代に書いた記事の多くは、マティとの会話や、彼女を通じて知った世界がなければ生まれなかったものです。トルンはインタビューで、マティが自身の言葉で世界を定義しようとする姿を描いたと語っています。これは、1906年の裁判資料や新聞記事の偏見に満ちた記述の行間から、一人の生きた女性の尊厳を救い出そうとする試みです。
二人の妻が象徴するものとは
1906年の裁判は、単なる遺産争奪戦ではありませんでした。それは、近代化する世界の中で、法、人種、国境という境界線に引き裂かれた八雲という作家の魂が、最終的にどこに帰属するのかを決める儀式でした。
マティ・フォリーは、八雲の「アメリカ時代」を象徴するミューズでした。社会の底辺を見つめ、抑圧された人々の声に耳を傾けたジャーナリスト時代の八雲にとって、マティとの生活、そしてその破綻がなければ、後にクレオール文化や日本の怪談に「哀愁と共感」を見出す視座は育まれなかったかもしれません。彼女は敗訴し、歴史の闇に消えましたが、八雲の文学の根底に流れる「弱き者への優しさ」の中に、彼女の面影は確かに生きています。
小泉セツは、八雲の「日本時代」を支えた守護者でした。彷徨える魂が安息を見出し、深遠な精神世界へと沈潜していった円熟期の八雲を、彼女は支えました。裁判に勝利し、夫の名声を確立したのは、単に運が良かったからではありません。彼女自身の賢明さと、夫を理解し支えようとする圧倒的な献身、そして彼女を支えた人々との絆がもたらした結果です。
朝ドラ「ばけばけ」が描くであろうセツの物語の輝きは、海の向こうで静かに消えていったマティという「影」の存在を知ることで、より一層の深みと、時代の哀切を帯びてきます。二人の妻は、全く異なる場所、全く異なる境遇にありながら、ラフカディオ・ハーンという稀有な作家の人生を、それぞれの「光」と「影」で彩った不可欠な存在だったのです。










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