小泉八雲の来日前女性遍歴を年表で解説|朝ドラ「ばけばけ」をより深く楽しむ

小泉八雲の来日前女性遍歴を年表で解説|朝ドラ「ばけばけ」をより深く楽しむ

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の来日前の女性遍歴とは、幼少期に生き別れた母ローザから始まり、社会的タブーに挑んだ最初の妻マティ・フォリー、知的交流を重ねたレオナ・ケリューズ、そして精神的な支えとなったエリザベス・ビスランドに至るまでの、魂の遍歴の記録です。2025年秋から放送されるNHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、小泉八雲と妻セツ(ドラマでは松野トキ)の夫婦愛を描く物語ですが、八雲がセツと出会う以前に経験した女性たちとの関係を知ることで、ドラマの理解がより深まります。本記事では、八雲が日本に「漂着」する以前の欧米時代における女性遍歴を年表形式で整理しながら、彼の文学の根底に流れる「喪失感」と「女性崇拝」の源泉を探ります。

小泉八雲の来日前女性遍歴を年表で解説|朝ドラ「ばけばけ」をより深く楽しむ
目次

小泉八雲とは何者か ― 朝ドラ「ばけばけ」の主人公モデル

小泉八雲とは、ギリシャ生まれのアイルランド系文学者ラフカディオ・ハーンが日本に帰化した際に名乗った名前です。1850年6月27日にギリシャのレフカダ島で生まれた彼は、アイルランド出身の英国軍医である父チャールズ・ブッシュ・ハーンと、ギリシャ人の母ローザ・アントニア・カシマティの間に生まれました。八雲は1890年に40歳で来日し、松江で没落士族の娘・小泉セツと結婚して日本に帰化しました。代表作『怪談』をはじめとする日本文化を紹介した作品群は、今なお世界中で読み継がれています。

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」では、この八雲をモデルとしたレフカダ・ヘブン(演:トミー・バストウ)と、セツをモデルとした松野トキの夫婦愛が描かれます。しかし、八雲がセツを選び、彼女の語る怪談に深く耳を傾けた背景には、来日前に経験した複雑な女性遍歴が存在します。

小泉八雲の来日前女性遍歴 年表

小泉八雲の来日前における主要な女性との関係を時系列で整理すると、以下のようになります。

出来事関係した女性
1850年ギリシャ・レフカダ島で誕生母ローザ・カシマティ
1852年アイルランド・ダブリンへ移住母ローザと共に
1854年母ローザがギリシャへ帰国、生き別れ母ローザとの永遠の別離
1854年頃〜大叔母サラ・ブレナンに引き取られる大叔母サラによる養育
1860年代後半メイドのキャサリンへ詩を送るキャサリン事件
1869年19歳でアメリカへ渡航
1874年6月14日マティ・フォリーと秘密裏に結婚最初の妻マティ
1877年頃マティとの結婚生活が破綻マティとの決定的な別離
1877年〜ニューオーリンズへ移住レオナ・ケリューズとの交流
1880年代エリザベス・ビスランドと出会う精神的パートナーとしての関係
1887年〜1889年マルティニーク島滞在ポルトゥーズたちへの美的関心
1890年40歳で日本へ渡航

この年表からわかるように、八雲は日本に到着するまでの40年間に、様々な女性たちとの出会いと別れを経験しました。それぞれの関係が、後の八雲の人格形成と文学に大きな影響を与えています。

母ローザ・カシマティ ― 喪失の原点と永遠の母性

小泉八雲の女性観を決定づけたのは、実母ローザ・アントニア・カシマティの存在と、あまりにも早い別離でした。

ローザはギリシャのキティラ島の旧家の娘であり、ギリシャ正教徒でした。彼女は読み書きができず、感情の起伏が激しい女性であったと伝えられています。一方、夫チャールズはプロテスタントであり、英国軍人としての規律と合理性の中に生きていました。この文化的・宗教的な違いは、二人の結婚生活に暗い影を落としました。

1852年、一家は父の駐屯地移動に伴いアイルランドのダブリンへ移住しました。地中海の太陽と自由な空気の中で育ったローザにとって、陰鬱で寒冷なダブリンの気候は耐えがたいものでした。さらに、ハーン家の親族たちは彼女を「異教徒」「野蛮な外国人」として冷遇しました。夫チャールズは不在がちであり、孤立無援となったローザは精神の均衡を崩していきました。

1854年、八雲がわずか4歳の時、ローザは妊娠中であったにもかかわらず、八雲を残してギリシャへと帰国してしまいました。その後、チャールズとの結婚は無効とされ、ローザは現地で再婚し、二度と八雲の前に姿を現すことはありませんでした。

この「母による遺棄」という原体験は、八雲の心に永遠に癒えることのない巨大な空洞を残しました。彼は母の顔を明確に思い出すことができず、家の壁に掛けられた「オリーブ色の肌をした聖母マリア」のイコンに母の面影を重ね合わせました。母は触れることのできない「聖なる不在」となり、その喪失感は後の彼の文学における「幽霊」や「異界」への執着へと形を変えていきました。

八雲が後年、自身の浅黒い肌や西洋近代社会に馴染めない気質の中に、母から受け継いだ「東洋的なるもの」「非西洋的なるもの」を見出したのは、こうした背景があったからです。彼が日本人の精神性に深く共鳴した根底には、ギリシャ人の母から受け継いだ血脈への誇りとノスタルジアが存在していました。

大叔母サラ・ブレナン ― ゴシック・ホラーの支配者と宗教的抑圧

両親を失った八雲を引き取ったのは、父の大叔母にあたるサラ・ブレナンでした。彼女は八雲の幼少期から青年期にかけての保護者でしたが、同時に彼の精神世界に暗く歪んだ影を落とした「抑圧者」でもありました。

サラ・ブレナンは裕福な未亡人であり、狂信的なカトリック教徒でした。彼女は八雲をカトリックの聖職者に育て上げようとし、幼い彼に厳格すぎる宗教教育を施しました。彼女の屋敷は重厚で陰気であり、八雲は夜になると「子供部屋」と呼ばれる部屋に鍵をかけられて閉じ込められました。

サラは「暗闇への恐怖を克服させるため」という名目で、灯りを一切与えず、完全な闇の中で過ごすことを八雲に強いました。この虐待に近い躾は、八雲に「闇への根源的な恐怖」と、同時に「闇の中に潜むものへの異常なまでの感受性」を植え付けました。少年八雲は闇の中で不可視の存在の気配を感じ、彼らが囁く声を聞くようになりました。彼が後に『怪談』作家として大成する素地は、このダブリンの冷たい子供部屋で、恐怖に震えながら過ごした夜々に形成されたのです。

サラの屋敷での生活において、八雲は「ジェーン」と呼ばれる女性の幽霊を見たと語っています。彼女はかつてその屋敷に滞在していた親族であり、八雲の繊細な感性は彼女の残留思念のようなものを敏感に感じ取っていました。この体験は、彼にとって「死者は決して消滅するのではなく、生者の記憶や空間の中に留まり続ける」という確信を抱かせる原点となりました。

キャサリン事件 ― 最初の恋と楽園追放

サラとの関係が決裂し、八雲が家を追われる決定的な要因となったのは、「キャサリン」という名のメイドの存在でした。

10代後半となり、厳格なサラや抑圧的なカトリック寄宿学校での生活に限界を感じていた八雲は、屋敷の使用人であったキャサリンに心を許し始めました。彼女は八雲にとって、冷酷で形式ばった「貴婦人」の世界とは異なる、温かく人間的で生命力に溢れた「民衆」の世界を象徴していました。

八雲はキャサリンに対して、若気の至りとも言えるきわどい詩を書き送ったり、自身の無神論的な思想を語ったりして、彼女の関心を引こうとしました。しかし、これを知ったサラ・ブレナンは激怒しました。彼女にとって、将来の司祭として育てていた被後見人が、カトリックの教義に背くだけでなく、階級の異なる使用人と情を通じようとすることは、許しがたい背信行為でした。

サラ自身が親族の投資失敗に巻き込まれて破産に近い状態に陥っていたことも重なり、彼女は八雲を事実上の勘当処分としてロンドンへ追放しました。この「キャサリン事件」は、八雲にとって重要な転換点となりました。彼は「上流階級の偽善」と「宗教の抑圧」を憎み、逆に「虐げられた人々」「社会の周縁にいる人々」への共感を強めていくことになります。

マティ・フォリーとの結婚 ― 禁断の愛と社会的死

1869年に19歳でアメリカに渡った八雲は、極貧生活を経てシンシナティで事件記者としての才能を開花させました。そこで出会ったのが、彼の人生最大のスキャンダルであり、同時に最も純粋な愛の一つとなった最初の妻、マティことアリシア・フォリーです。

マティ・フォリーは、かつてケンタッキー州の農場で奴隷として働いていた、黒人と白人の混血(ムラート)の女性でした。シンシナティの下宿屋で料理人として働いていた彼女と、同じ下宿に住んでいた八雲は出会いました。当時の八雲は24歳、事故で左目を失明して隻眼となり、残された右目も強度の近視で突出していました。彼は自身の特異な風貌に強いコンプレックスを抱き、白人社会の上流階級には馴染めない「アウトサイダー」としての意識を強く持っていました。

八雲がマティに惹かれたのは、単なる同情やエキゾシズムではありませんでした。彼らは「魂のレベル」で共鳴していたのです。マティは文字を読むことはできませんでしたが、優れた語り部であり、霊的な感受性が強い女性でした。彼女は八雲に、自身の過酷な奴隷時代の経験や、ヴードゥー教に通じる超自然的な体験談を語って聞かせました。

八雲は彼女を「ゴースト・シーカー(幽霊を見る人)」と呼び、彼女の語りを『Some Strange Experience: The Reminiscences of a Ghost-Seer』という記事として新聞に掲載しました。この記事の中で、八雲は彼女の語り口を当時の新聞によく見られた黒人英語の差別的なカリカチュアとしてではなく、詩的で神秘的なものとして尊厳を持って記録しています。彼はマティの中に、失われた母ローザと同じ「野生」と「神秘」、そして「社会からの疎外」という共通項を見出し、彼女の語る「異界」の物語に救いを感じていました。

1874年6月14日、八雲はマティと結婚しようとしました。しかし、当時のオハイオ州法では白人とアフリカ系アメリカ人の結婚は違法(異人種間混交禁止法)でした。それでも八雲は諦めず、黒人の牧師を探し出して秘密裏に挙式を強行しました。彼はこの結婚を隠そうとはせず、むしろ自らの愛の正当性を信じていました。

しかし、この事実はすぐに新聞社の知るところとなり、スキャンダルとして報じられました。八雲は当時勤めていた『シンシナティ・エンクワイアラー』紙を解雇されるという社会的制裁を受けました。彼は愛のために職を失い、友人たちから白眼視され、白人社会での地位を完全に捨てました。

その後、友人と共に立ち上げた風刺雑誌『Ye Giglampz』も商業的に失敗し、八雲の生活は困窮しました。さらに悲劇的だったのは、マティとの結婚生活そのものの破綻です。マティもまた八雲と同様に複雑な性格の持ち主であり、二人の関係は次第に悪化しました。1877年頃には決定的な破局を迎え、八雲は彼女を残してニューオーリンズへと逃亡しました。

正式な離婚手続きが行われたかどうかは曖昧なままであり、マティは八雲の死後、遺産を巡って訴訟を起こし、自身が正当な妻であったことを主張することになります。このマティとの関係は、八雲が「西洋近代社会の規範」よりも「個人の魂の真実」を優先させた結果であり、彼が日本でセツと出会う前に、既に「人種や身分を超えた愛」を実践し、そしてその代償として深く傷ついていたことを示しています。

レオナ・ケリューズ ― クレオールの詩神とプラトニック・ラブ

ニューオーリンズに移り住んだ八雲は、そこでフランス文化とアフリカ文化が融合した「クレオール文化」に深く魅了されました。亜熱帯の気候、古い街並み、そして多様な人種が織りなす文化は、彼の感性を大いに刺激しました。この地で精神的な交流を持ったのが、才色兼備のクレオール女性、レオナ・ケリューズです。

レオナ・ケリューズは、ニューオーリンズのフランス系貴族の血を引く名家の娘であり、詩人、エッセイスト、音楽家としても活躍する知的な女性でした。彼女のサロンには当時の文化人たちが集い、八雲もその常連となりました。マティとの関係が「社会の底辺での連帯」であったとすれば、レオナとの関係は「高貴な精神世界での共鳴」でした。

八雲はレオナの詩の才能を高く評価し、彼女に文学的な助言を与えました。また、レオナは八雲のために、彼が研究していたクレオール語の歌詞やことわざの翻訳を手助けするなど、二人は対等な知的なパートナーシップを築きました。八雲が彼女に抱いた感情は、肉体的な情欲というよりも、理想化された「崇拝」に近いものでした。彼はレオナの中に、古代ギリシャの詩想と南部の退廃的な美、そして自身が持たない「洗練された教養」を見ていました。

八雲とレオナの交流は短期間でしたが、その精神的な絆は深いものでした。八雲が西インド諸島(マルティニーク)へ旅立つ際、二人の関係は物理的に途絶えましたが、レオナは八雲を想い続け、「Fantôme d’Occident: À Lafcadio Hearn au Japon(西の幻影:日本にいるラフカディオ・ハーンへ)」という詩を書いたとされています。この詩の中で、彼女は八雲を「月」に例え、彼が去った後の夜空に残された星々の寂しさと、彼への消えることのない思慕を歌い上げました。

レオナが30年後に出版した回想録『The Idyl: My Personal Reminiscences of Lafcadio Hearn』には、彼女が八雲に対して抱いていた深い愛情と尊敬、そして彼という特異な才能を理解していた数少ない女性としての矜持が綴られています。レオナとの関係は、八雲が求めていた「教養ある女性との魂の交流」の具現化でした。しかし、彼女のような自立した知性を持つ西洋女性との関係は、八雲の心の奥底にある「傷」を癒やすには、あまりに眩しすぎたのかもしれません。

エリザベス・ビスランド ― 届かぬ星への手紙と精神的依存

八雲の来日前の女性遍歴を語る上で、最も重要かつ複雑な存在が、ジャーナリストで作家のエリザベス・ビスランドです。彼女は八雲にとって「最愛の友」であり、同時に「永遠に手の届かない憧れのミューズ」でした。

八雲とエリザベスは、ニューオーリンズ時代に出会いました。彼女は美しく聡明で、後にニューヨークで雑誌編集者として成功を収めるキャリアウーマンでした。二人の関係は主に膨大な数の手紙のやり取りによって育まれました。八雲は彼女への手紙の中で、自身の最も深い思想、孤独、芸術観、そしてハーバート・スペンサーの哲学や仏教への関心などを赤裸々に吐露しています。

八雲は自身の容姿へのコンプレックスから、彼女に対して恋愛感情を直接的にぶつけることはしませんでしたが、その精神的な依存度は極めて高いものでした。彼はある手紙の中で「あなたは私に魂を与えてくれた」とまで記しており、エリザベスこそが彼の孤独な魂を理解し導いてくれる唯一の存在であると信じていました。

1889年から1890年にかけて、エリザベスは雑誌『コスモポリタン』の企画で「世界一周早回り」の旅に出ました。これはジュール・ヴェルヌの『80日間世界一周』に挑戦するものであり、ライバル誌のネリー・ブライとの競争でもありました。彼女が世界を飛び回り華やかな脚光を浴びている間、八雲はニューヨークで孤独と閉塞感に苛まれていました。

八雲は急速に近代化し物質主義に染まっていくアメリカ社会に絶望し始めていました。そして、その象徴とも言える場所で成功し世界を股にかけて活躍するエリザベスに対し、愛憎入り混じった複雑な感情を抱いていたと考えられます。彼は彼女に宛てた手紙の中で、彼女の旅を祝福しつつも自身の置かれた状況への嘆きを漏らしています。

八雲が1890年に日本へ向かった直接の動機はハーパーズ・マガジンの取材旅行でしたが、その深層にはエリザベスを含めた「西洋の近代的な女性たち」との関係における行き詰まりがありました。彼はエリザベスのような「強くて美しい西洋女性」を崇拝しつつも、現実の生活において彼女たちと対等なパートナーシップを築くことの不可能性を悟っていたのです。

日本に到着した八雲がエリザベスに宛てて書いた1890年の手紙には、日本の女性と自然についての決定的な記述があります。「ここの自然は、熱帯の野性的な自然とは違う。日本の女性のように、控えめで、灰色と青色の、人間に愛されるために自らを美しくしている自然だ。私は日本の、貧しくも素朴な人間性を愛している。それは神聖なものだ」と八雲は記しました。

彼はここで明確に「西洋の野性的で圧倒的な美」と「日本の従順で優しい美」を対比させています。エリザベスが前者であるならば、八雲が日本で見つけた安らぎは後者でした。八雲の日本への定住とセツとの結婚は、エリザベスという「高嶺の花」への決別宣言であり、彼が自身の魂の安息のために「別の美」を選び取ったことを意味していました。

マルティニークのポルトゥーズ ― 肉体としての女性美への傾倒

特定の個人との恋愛ではありませんが、八雲の女性観を語る上で欠かせないのが、西インド諸島マルティニーク滞在時代(1887年〜1889年)に彼が魅了された「ポルトゥーズ(荷運び女)」たちの存在です。

八雲は、重い荷物を頭に載せて起伏の激しい山道を裸足で歩くクレオールの女性たちの姿に、古代ギリシャのカリアティード(女像柱)のような美しさを見出しました。彼女たちは教育や教養といった西洋的な価値観とは無縁でしたが、生命力に溢れ、過酷な労働に耐えうる強靭な肉体と驚くほど優雅な身のこなしを兼ね備えていました。

八雲のエッセイ『Les Porteuses』において、彼は彼女たちの苦難に満ちた生活への同情とともに、その肉体的な美しさを賛美しています。彼は彼女たちの歩き方を「無意識の優雅さ」と表現し、近代文明によって失われた「人間の本来あるべき美」をそこに見出しました。

また、マルティニークはヴードゥー教の影響が色濃く残る土地であり、八雲はここで「ゾンビ」の伝承など現地の怪異譚を収集しました。彼はポルトゥーズたちが語る物語の中に、生と死が混在する独特の世界観を見出し、それに深くのめり込みました。

これは彼が後の妻セツに求めたものと共通しています。八雲にとって、ヴィクトリア朝のコルセットで締め付けられた病弱な白人女性よりも、マルティニークのポルトゥーズや日本の質素な着物姿の女性の方が、はるかに「真正な美」を体現していました。そして彼女たちが語る土着の物語こそが、彼のインスピレーションの源泉でした。マルティニークでの経験は、八雲が日本で「怪談」を発見するための予行演習であり、彼の中で「女性」と「物語(怪異)」が不可分なものとして結びついた重要な時期でした。

小泉セツへの帰着 ― すべての女性遍歴の果てに

1890年、40歳で来日した八雲は、松江の地で小泉セツと出会いました。この出会いは八雲にとって単なる新しい恋の始まりではなく、これまでの苦難に満ちた女性遍歴の「総決算」であり、傷ついた魂の「癒やし」でした。

セツは没落士族の娘として厳格な躾を受けており、八雲が求めていた「古き良き日本」の精神を持っていました。同時に彼女は一度結婚に失敗し貧困を経験しているという点で、八雲の心の痛みを理解しうる「傷ついた魂」の持ち主でもありました。

八雲がセツを選び深く愛した理由は、単に彼女が献身的だったからだけではありません。彼の中にある「過去の女性たち」の要素が、セツという一人格の中で奇跡的に統合されていたからです。

セツが語る日本の怪談や民話は、幼い頃に母やマティから聞いた物語の世界と直結していました。セツは八雲にとって「物語の供給者」であり、失われた母性を補完する存在となりました。彼がセツに怪談を語らせる時、彼は時を超えて母ローザの膝元に帰っていたのです。

異人種であり社会的に苦労をした女性であるセツとの結婚は、かつて失敗に終わったマティとの結婚の「やり直し」であり、それをより高い次元で成就させるものでした。また、エリザベスのような「自立した西洋女性」との競争や緊張関係から解放され、八雲は家庭内において「家長」として振る舞いながらも、精神的にはセツに甘えることができる存在となりました。

セツの飾らない美しさと生活の中に息づく凛とした強さは、八雲がマルティニークで憧れた「無意識の優雅さ」の日本的な発露でした。

朝ドラ「ばけばけ」で描かれるセツ(松野トキ)との愛は、これら全ての女性たちの幻影を鎮め、八雲がようやく見つけた「安住の地」における奇跡のような物語です。八雲がセツの中に見たのは、単なる一人の日本女性ではなく、彼が一生をかけて追い求めてきた「永遠の女性」の面影そのものだったのかもしれません。

小泉八雲の女性遍歴が『怪談』に与えた影響

八雲の女性遍歴と彼の代表作『怪談』には、深い関連があります。母ローザとの別離によって植え付けられた「聖なる不在」への渇望、大叔母サラの屋敷で体験した闘の恐怖と霊的感性、マティから聞いたヴードゥーの怪異譚、そしてマルティニークで収集したゾンビ伝承。これらすべてが、八雲の怪談文学の土壌となりました。

そして最終的に、セツという「物語の供給者」を得たことで、八雲の文学は完成しました。セツが語る日本の怪談は、八雲がこれまで経験してきた女性たちとの関係の中で培われた霊的感性によって、独自の文学作品へと昇華されたのです。

八雲の物語は常に「彼女たち」と共にありました。そして、その旅の果てに生まれたのが、私たちが知る『怪談』という美しくも哀しい文学の結晶なのです。

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