錦織友一の妻の実在モデルは、西田千太郎の妻・安食クラ(あんじき・くら)です。2025年後期NHK連続テレビ小説『ばけばけ』で吉沢亮が演じる錦織友一は、明治時代に活躍した教育者・西田千太郎をモデルとしており、ドラマで語られる「松江に残した妻」の実在モデルが安食クラとなります。安食クラは、夫・西田千太郎が35歳で病没した後、四人の子供を一人で育て上げ、長男を東京帝国大学へ、次男を東京大学農学部へ、三男を海軍少将へと導いた「明治の母」として知られています。
『ばけばけ』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻・小泉セツの物語を軸に、明治松江を舞台とした異文化交流と怪談文化の継承を描く作品です。本作では、ヒロイン・松野トキ(小泉セツがモデル)と外国人教師レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーンがモデル)の運命的な出会いが中心となりますが、二人を支えた錦織友一という人物の存在も物語の重要な軸となっています。この記事では、錦織友一の妻である安食クラの生涯と、彼女が支えた西田千太郎の実像、そしてドラマの背景にある史実について詳しく解説していきます。

錦織友一とは何者か ― ドラマでの役割と人物像
錦織友一は、『ばけばけ』において松江随一の秀才として描かれ、「大盤石(だいばんじゃく)」の異名を持つ人物です。吉沢亮が演じるこのキャラクターは、貧しい家庭の出身でありながら、卓越した知性と誠実な人柄で周囲の信頼を集めています。
ドラマでは、錦織が東京帝国大学への進学を目指しながらも、経済的理由や健康問題により夢を断念せざるを得ない苦悩が描かれています。彼は東京でヒロインのトキやその夫・銀二郎と交流し、彼らを支える兄貴分的な存在として物語に関わります。その後、松江に戻った錦織は英語教師としてヘブン(ハーン)を支え、外国人教師と地元の人々をつなぐ重要な「仲介者」の役割を果たすことになります。
第18回の放送で明らかになった重要な設定として、錦織には松江に残した妻がいるという事実があります。この設定は、彼が単なる自由な学生ではなく、家と責任を背負った「生活者」であることを強調しています。東京での遊学中も彼の心の一部は常に松江の妻と家族に向けられており、その葛藤が物語に深みを与えています。
錦織友一の実在モデル・西田千太郎の生涯
「出雲の三才人」と呼ばれた天才教育者
錦織友一の実在モデルは、西田千太郎(1862年〜1897年)です。西田は「出雲の三才人」の一人に数えられる傑出した教育者であり、ラフカディオ・ハーンが生涯で最も信頼した日本人男性でした。
西田千太郎は文久2年(1862年)、松江藩士・西田半兵衛の長男として生まれました。幼少期より神童の誉れ高く、学業において抜群の成績を修めましたが、家は貧しく、また若くして肺結核を患っていました。明治13年(1880年)、18歳の時に病気のため中学校を中退するという挫折を経験しています。しかし、その向学心は衰えることなく、独学で学び続け、明治19年(1886年)には教員検定試験に合格し、正規の教員資格を取得しました。
ハーンとの運命的な出会いと友情
明治23年(1890年)8月、ラフカディオ・ハーンが松江に赴任した際、西田千太郎は島根県尋常中学校の教頭(教務主任)として彼を迎えました。当時28歳であった西田は、40歳のハーンに対し、学校の制度や日本の慣習について丁寧に教示し、ハーンの日本理解を深める手助けをしました。ハーンは西田について「知的で、親切で、決して媚びることなく、私の欠点さえも指摘してくれる真の友人」と絶賛しています。
西田とハーンの関係は、単なる同僚を超えた魂の交流でした。ハーンが松江の冬の寒さに苦しめば西田は火鉢の手配をし、ハーンが日本の神話に興味を持てば共に出雲大社や加賀の潜戸へ旅をしました。特筆すべきは、ハーンが最初の講義を行う際のエピソードです。極度の緊張状態にあったハーンを支え、通訳を務めたのが西田でした。この時、西田自身も喀血するほどの重病を抱えており、止血剤や注射で症状を抑えながら教壇に立っていたという記録が残っています。
命を削って友を支える西田の姿は、ハーンにとって「武士道」の体現そのものだったと言えるでしょう。二人の友情はハーンが松江を去った後も続き、生涯で交わされた書簡は128通にも及びます。
錦織友一の妻の実在モデル・安食クラの生涯
西田千太郎を支えた女性
ドラマ『ばけばけ』では、錦織友一の妻は「松江に残した妻」として語られるのみで、その姿が詳細に描かれることは限られています。しかし、史実において西田千太郎を支え、彼の死後もその家を守り抜いた女性が安食クラ(あんじき・くら)です。
安食クラは、西田千太郎と明治17年(1884年)に結婚しました。当時、西田は22歳で、まだ教員検定試験に合格する前のことでした。病気による中退を経て将来を模索していた不安定な時期に結婚したことは、クラが西田の才能と人間性を深く信じ、共に苦労を背負う覚悟を持っていたことを示しています。
西田千太郎とクラの夫婦生活は、わずか13年という短いものでした。その期間の多くは夫の闘病と貧困との戦いであったと推測されます。しかし、ハーンが西田家を訪れた際の記述からは、質素ながらも温かい家庭の様子がうかがえます。ハーンは西田家を「日本の家庭の美徳」が息づく場所として愛しており、そこにはクラの細やかな気配りがあったと考えられます。
四人の子供を育て上げた「明治の母」
西田千太郎とクラの間には、一女三男が生まれました。長女・キンは明治17年(1884年)生まれ、長男・哲二は明治21年(1888年)生まれで、父譲りの秀才として東京帝国大学工学部に進学しましたが、父と同じく30歳という若さで早世しています。次男・敬三は明治24年(1891年)生まれで、東京大学農学部水産学科を卒業し、後に広島大学教授(水畜産学部長)を務めた水産学者となりました。三男・兵四郎は明治27年(1894年)生まれで、海軍に進み、海軍少将まで昇進しました。
この子供たちの経歴は、安食クラという女性の並々ならぬ力量を証明しています。明治30年(1897年)に夫・千太郎が35歳で病没した時、長女は13歳、末っ子の兵四郎はわずか3歳でした。一家の大黒柱を失い、四人の子供を抱えたクラの苦労は想像を絶するものがあります。しかし、彼女は子供たちに高等教育を受けさせ、それぞれを帝大や海軍といったエリートコースへと送り出したのです。
これは西田千太郎が抱いていた「教育への情熱」を、妻であるクラが継承し、執念とも言える努力で子供たちに注ぎ込んだ結果と言えます。彼女は歴史の表舞台には出てきませんが、明治の近代化を支えた人材を育て上げた「母」として、確かな足跡を残しています。
ハーンとセツの結婚を支えた西田夫妻の存在
媒酌人としての役割
ラフカディオ・ハーンと小泉セツの結婚において、西田千太郎は媒酌人を務めました。この時、妻のクラもその場に立ち会い、陰ながら準備を支えた可能性が高いと考えられています。異文化結婚という前例のない事態に直面したセツにとって、同じ士族の妻であり、夫を支える苦労を知るクラの存在は、無言の励ましとなったのではないでしょうか。
当時、外国人と結婚することは「ラシャメン(外国人の妾)」として蔑まれる行為でした。士族の娘であったセツがその汚名を被る覚悟で結婚を決意した背景には、西田千太郎や富田旅館の女将らの説得があったとされています。安食クラもまた、同じ女性としてセツの決断を見守り、支えた一人だったと推測されます。
『ばけばけ』ヒロインのモデル・小泉セツの波乱万丈な人生
没落士族の娘としての苦難
ドラマのヒロイン・松野トキのモデルである小泉セツ(1868年〜1932年)は、松江藩士・小泉湊の次女として生まれました。小泉家は家禄三百石の上士でしたが、セツは生後すぐに親戚の稲垣家(百石の士族)へ養女に出され、「お嬢(おじょ)」と呼ばれて大切に育てられました。
しかし、明治維新が彼女の運命を暗転させます。家禄の奉還と事業の失敗により、稲垣家は極貧状態に陥りました。セツは学ぶことを愛していましたが、家計を助けるために小学校を中退し、11歳から織子として働かなければなりませんでした。彼女の手は機織りの重労働で節くれ立ち、ハーンが初めて会った時に「士族の娘の手ではない」と驚いたという逸話が残っています。
最初の結婚と離別の悲劇
『ばけばけ』の前半で重要な役割を果たす山根銀二郎(寛一郎演)のモデルは、鳥取藩士の次男・前田為二です。明治19年(1886年)、18歳のセツは28歳の為二を稲垣家の婿養子として迎えました。為二は物語や浄瑠璃を好む穏やかな人物で、セツに月琴を教えるなど文化的な趣味を共有できる夫でした。この時期、セツは為二から「鳥取のふとん」という怪談を聞いています。雪の降る夜、貧しい兄弟がたった一枚の布団を取り上げられ凍死してしまうという悲しい物語です。
しかし結婚生活は長く続きませんでした。稲垣家の借金と、養父母・祖父を含めた家族全員を養わなければならない重圧は、為二の精神を蝕みました。彼は結婚から1年足らずで出奔し、大阪へと逃げてしまいます。セツは夫を連れ戻すためなけなしの金をはたいて大阪まで赴きましたが、為二の心は離れており復縁は叶いませんでした。帰路、絶望したセツは船から身を投げようとしましたが、松江で待つ家族の顔が浮かび思いとどまったといいます。この壮絶な体験は、後にハーンに語る怪談の「悲哀」の深さに決定的な影響を与えました。
ハーンとセツが生み出した奇跡の共通言語「ヘルンさん言葉」
言葉の壁を超えた魂の交流
ハーン(セツは彼を「ヘルンさん」と呼んだ)とセツの間には言葉の壁がありました。ハーンは日本語の読み書きができず、セツは英語が全くわかりませんでした。しかし二人は独自のピジン言語(混合言語)である「ヘルンさん言葉」を生み出しました。この言葉は文法的には破綻しているようでいて、二人の間では完璧に機能する魔法の言葉でした。
この言葉の特徴として、まずテニヲハの省略と簡素化があります。「アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス」(あなた、親切にもママに毎日可愛い手紙をくれます)といった表現が使われました。また、動詞の辞書形・現在形が多用され、「見るです」「行くですか」「食べるです」といった形で話されました。さらに英語的語順の借用も見られ、「シンセツノパパサマ(Kind Papa-sama)」のような表現も使われました。
この言葉はハーンにとって非常に好都合でした。複雑な日本語の敬語や活用に惑わされることなく、言葉の持つ「イメージ」や「情動」をダイレクトに受け取ることができたからです。セツはこの言葉を駆使して、日本の複雑な怪談や伝説をハーンの脳裏に映像として再生させたのです。
『怪談(Kwaidan)』を生んだ共同創作
小泉八雲の代表作『怪談(Kwaidan)』は、ハーン一人の著作ではありません。それはセツとの完全な共同作業の結晶です。セツの役割は多岐にわたりました。取材者として古本屋を巡って怪談の本を探し、旅先では土地の古老から伝説を聞き出しました。実演者としては、集めた話をただ読み上げるのではなく情感たっぷりに「語り」聞かせました。ハーンは「本を読むな、話してくれ」と懇願し、彼女の口承から物語の魂を掴み取りました。幽霊が出る場面では声を潜め、恐怖の表情を作るセツの演技に、ハーンは本気で怯え顔色を変えたといいます。校閲者としても、日本の風習や着物の描写、幽霊の現れ方などのディテールについてハーンの質問に答え、間違いを正しました。
名作怪談の誕生とセツの記憶
「雪女」「耳なし芳一」に込められた物語
『怪談』に収録された物語の多くは、セツの個人的な記憶や体験と結びついています。「雪女」は美しくも恐ろしい雪女の伝説ですが、この物語の根底には、セツが最初の夫・為二から聞いた「鳥取のふとん」の雪のイメージや、山陰の厳しい冬の記憶が流れています。
「耳なし芳一」は平家の怨霊に耳を奪われる琵琶法師の物語です。ハーンはこの物語のクライマックス、武士が芳一を呼ぶ「カイモン(開門)!」という叫び声の響きにこだわり、セツと何度も発音を確認し合いました。
「飴を買う女」は松江の大雄寺に伝わる、死んだ母が幽霊となって赤子のために飴を買いに来る話です。幼くして母と生き別れたハーンにとって、この物語は自身の母への思慕を投影する特別なものであり、セツもまた母としてその情愛を深く理解して語りました。
西田千太郎の死とハーンの深い悲しみ
親友を失った喪失感
明治30年(1897年)、松江の親友・西田千太郎が35歳の若さで病死しました。ハーンにとって西田は単なる友人以上の存在でした。彼はハーンの日本理解の扉を開いた恩人であり、魂の兄弟でした。ハーンの悲嘆は深く、晩年になっても道ゆく人の中に西田の面影を探し、「今日、西田さんの後ろ姿を見た気がして追いかけた」とセツに語るほどでした。
二人の友情は、ハーンが松江を去った後も生涯にわたって続きました。熊本の第五高等中学校、神戸のクロニクル社、そして東京帝国大学へと移り住む中でも、ハーンは西田との文通を続けました。その書簡は128通にも及び、二人の絆の深さを物語っています。
妻・クラが守り抜いた西田家
西田の死後、妻のクラは四人の子供を抱えて激動の時代を生き抜きました。彼女が子供たちを立派に育て上げたことは、亡き夫への最大の供養であり、またハーンが信じた「日本の家庭の強さ」の証明でもありました。長男・哲二は父と同じく早世しましたが、次男・敬三は水産学者として、三男・兵四郎は海軍少将として、それぞれ日本の近代化に貢献しました。
『ばけばけ』が照らし出す明治松江の精神風土
「神々の国の首都」と呼ばれた土地
物語の舞台となる松江は、ハーンによって「神々の国の首都」と称された特別な場所です。明治20年代の松江は、中央集権化が進む東京とは異なり、江戸時代の面影を色濃く残していました。城下町特有の静寂、宍道湖の夕景、そして何より人々の生活の中に「目に見えないもの」への畏敬の念が息づいていたのです。
当時の松江は、士族の没落という厳しい現実にも直面していました。明治維新による秩禄処分は武士階級から経済的基盤を奪い、誇り高き松江藩士たちを貧困のどん底へと突き落としました。ドラマで松野家が直面する貧困や、父・司之介が髷を切れずに時代に取り残されている描写は、この歴史的背景を象徴しています。しかし経済的な困窮の中でも、精神的な豊かさや文化的な誇りを失わなかったのが松江の士族たちの特徴でもありました。
異文化接触がもたらした化学反応
『ばけばけ』の物語は、単なる国際結婚のロマンスではありません。それは「異界」との遭遇の物語です。当時の日本人にとって西洋人はまさに「異界の住人」であり、時に「鬼」や「天狗」と同一視されるほどの畏怖の対象でした。セツのモデルである小泉セツは、幼少期に西洋人に抱き上げられ虫眼鏡をもらった経験を持ちます。彼女はその時「顔は怖いが心は優しい」と直感したといいます。この原体験が、後にハーンという「異界の住人」を受け入れる精神的土壌となりました。
異文化接触は西洋側にとっても衝撃的な体験でした。ハーンにとっての日本は、失われた古代ギリシャの精神が生き残っているかのような「霊的なユートピア」でした。彼は日本の近代化を「醜い西洋の模倣」と嘆き、日本人が本来持っていた「美しい心」を守ろうとしました。
ハーンの最期とセツの後半生
西大久保での穏やかな日々と突然の別れ
明治29年(1896年)、東京帝国大学の講師として招聘され、ハーンとセツの一家は東京へ移り住みました。西大久保(現在の新宿区)の家は広い庭と竹藪があり、ハーンはここを「私の家」として愛しました。彼は庭に来る鶯の声を楽しみ、書斎で執筆に没頭しましたが、急速に近代化する東京の喧騒は彼の愛した「日本の静寂」を徐々に侵食していきました。
明治37年(1904年)、ハーンは狭心症の発作により西大久保の自宅で息を引き取りました。享年54歳でした。最期の夜、彼は胸の痛みを訴えながらも、セツに「ママさん、先日の病気(発作)、また参りました」と静かに告げたといいます。
夫の遺志を継いだセツの晩年
夫の死後、セツは36歳で未亡人となりましたが、ハーンが遺した著作権と遺産を適切に管理し、四人の子供たちを育て上げました。彼女は晩年まで、ハーンの書斎をそのままに残し、毎日彼に語りかけるように暮らしました。昭和7年(1932年)、セツは64歳でその生涯を閉じました。
『ばけばけ』というタイトルに込められた意味
悲しみが美しい物語へと「化ける」再生の物語
『ばけばけ』というタイトルは、化けて出る「お化け」を指すのみならず、複数の意味を持っています。時代の激変によって人々の生活様式や価値観が「化けて」いく様、そして悲しみや怨みが物語へと昇華され、美しいものへと「化けて」いく再生のプロセスを象徴しています。
セツの人生そのものが、この「化ける」というテーマを体現しています。最初の夫との離別という悲劇は『怪談』の源泉となり、西田千太郎の早すぎる死はハーンの日本理解に深みを与えました。安食クラもまた、夫を失った悲しみを子供たちへの教育という形で昇華させ、次世代のリーダーたちを育て上げました。
『ばけばけ』は、明治という転換期を生きた「名もなき人々」の息遣いと、彼らが紡いだ文化の土壌を現代に伝える作品です。錦織友一の妻として語られる安食クラの存在は、ドラマにおいて錦織が背負う「責任」と「帰るべき場所」の重みを裏付けています。歴史の表舞台には出てこない女性たちの強さが、実は日本の近代化を支えていたという事実を、この物語は静かに照らし出しているのです。










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