朝ドラ『ばけばけ』で注目!明治時代の暖房文化と湯たんぽの歴史を徹底解説

2025年秋に放送が開始されるNHK連続テレビ小説『ばけばけ』では、明治時代の暖房文化と湯たんぽが重要なモチーフとして描かれます。物語のモデルとなる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻セツが暮らした松江は、冬の寒さが厳しい土地であり、当時の暖房器具である火鉢や炬燵、そして湯たんぽは、異国の夫を支える妻の献身的なケアを象徴する存在でした。本稿では、ドラマの背景となる明治時代の暖房事情を詳しく解説し、湯たんぽがいかに人々の生活を支え、現代にも通じる「温もり」の価値を持っているかを紐解いていきます。

目次

『ばけばけ』の主人公モデル・小泉八雲と松江の冬

熱帯から極寒の地へ渡った異邦人の苦悩

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公のモデルとなったのは、近代日本文学に怪談という新たな地平を切り拓いた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)です。1850年にギリシャのレフカダ島に生まれた彼は、アイルランド人の父とギリシャ人の母を持ちますが、幼少期に両親と離別し、孤独な少年時代を過ごしました。16歳で左目を失明するという悲劇は、彼に深い劣等感を与えると同時に、目に見えない世界への感受性を研ぎ澄ませる契機となりました。

19歳でアメリカへ渡ったハーンは、シンシナティやニューオーリンズでジャーナリストとして頭角を現しました。特筆すべきは、彼が日本に来る前に過ごした場所が、アメリカ南部や西インド諸島のマルティニーク島といった熱帯・亜熱帯の地域であったことです。強烈な太陽と開放的な空気に馴染んだ彼の身体にとって、1890年(明治23年)に来日した日本の気候、とりわけ冬の寒さは想像を絶する打撃となりました。

ドラマ『ばけばけ』において、ハーンをモデルとしたキャラクター「ヘブン」が日本の冬に直面して嘆く姿が描かれることが予想されますが、これは決して大袈裟な表現ではありません。南国育ちの彼にとって、日本は精神的な「神々の国」であると同時に、肉体的には寒冷地獄でもあったのです。

ヒロインのモデル・小泉セツの強さと柔軟性

一方、ヒロインのモデルである小泉セツは、松江の士族の娘として生まれました。明治維新による士族の没落は、彼女の家族を経済的な困窮へと追い込みました。家計を支えるために機織りに従事し、一度は結婚するものの離縁を経験するなど、彼女の前半生もまた時代の荒波に翻弄される苦難の連続でした。

しかし、セツには特筆すべき資質がありました。それは「異質なもの」を受け入れる柔軟性と、生活の中に物語を見出す感性です。幼少期、松江で軍事教練を行っていたフランス人教官ヴァレットに、他の子供たちが恐れをなして逃げ出す中、3歳のセツだけが近づいていき、虫眼鏡をもらったというエピソードが残っています。この「開かれた精神」は、後に青い目の異邦人ハーンを受け入れる土壌となりました。

1891年(明治24年)、松江の中学校に英語教師として赴任していたハーンのもとに、セツが住み込みの女中として、そして後に妻としてやってきました。この出会いは、互いの欠落を埋め合わせる運命的なものでした。ハーンはセツに経済的な安定と西洋的な愛情表現を与え、セツはハーンに日本の民話という創作の源泉と、日々の生活における献身的なケアを提供しました。

ドラマのタイトル『ばけばけ』は、ハーンが愛した「化け物(怪談)」と、近代化によって「化けていく」日本の姿、そして二人が化学反応を起こして人生を好転させていく様を重ね合わせたものと解釈できます。その美しい精神的交流の基盤には、過酷な現実生活がありました。南国育ちで寒さに極端に弱いハーンを、いかにして松江の冬から守るか。セツの戦いは、まさに「暖をとる」ことから始まったのです。

明治24年の記録的寒波と日本家屋の構造的欠陥

八雲を襲った厳冬の記録

八雲が松江で過ごした最初の冬、すなわち1890年から1891年(明治23〜24年)にかけての冬は、気象史に残るほどの記録的な厳冬でした。当時の記録によれば、松江市内でも積雪は1メートルを超え、宍道湖から吹き付ける湿った冷風は、街全体を冷凍庫のように凍らせました。

この異常気象は、ハーンの心身に深刻なダメージを与えました。彼は友人への手紙の中で、「まだ声が十分はっきり出ません、猫のように弱っています」と自身の衰弱ぶりを訴えています。南国の太陽を知る彼にとって、灰色の空と降り止まない雪、そして骨の髄まで染みるような湿潤な寒さは、生命力を削ぎ落とす恐怖の対象でした。彼は松江を「神々の国の首都」と呼び愛していましたが、この寒さだけは耐え難く、後に熊本へ転居する大きな要因の一つとなったとも言われています。

「夏を旨とする」日本建築の限界

なぜ、日本の家はこれほどまでに寒いのか。その答えは、日本の伝統的な建築思想にあります。吉田兼好が『徒然草』で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と説いたように、日本の家屋は高温多湿な夏をいかに涼しく過ごすかという点に主眼を置いて設計されてきました。

高い床、開放的な間取り、土壁と障子、襖による仕切りは、風通しを良くし湿気を逃がすには最適でしたが、断熱性と気密性においては致命的な欠陥を抱えていました。ハーンが住んだ武家屋敷も例外ではありません。外気との境界は薄い板戸や障子一枚であり、隙間風は容赦なく室内に侵入しました。ハーンはこの状態を「欧米の住居は密閉されてセントラルヒーティングを完備しているが、日本の住居はとても寒い」と嘆いています。

畳の床下から忍び寄る冷気、障子の隙間から入り込む風。室内であっても息が白くなるような環境で、ハーンは厚手の綿入れを何枚も重ね着し、ガタガタと震えながら執筆を続けました。彼にとって日本の家屋は、美しい芸術品であると同時に、冬には住人を拒絶するかのような冷徹な空間に変貌したのです。

明治時代の暖房器具と生活の知恵

火鉢の美学と実用的な限界

明治時代、西洋からはガス灯や鉄道といった近代技術が次々と導入されましたが、一般庶民の暖房事情に関しては江戸時代とほとんど変わらない前近代的な状態が続いていました。明治の暖房器具の代表格といえば「火鉢」です。陶器、木製、金属(銅や真鍮)で作られた容器に灰を入れ、炭火を熾して暖を取るこの道具は、単なる暖房器具を超えたインテリアとしての側面も持っていました。

箱型の木製火鉢である長火鉢は、片側に猫板(炉)があり、引き出しには茶道具や煙草盆を収納できる機能的な家具でした。商家の帳場や主人の居場所として象徴的な意味を持っていました。また、一人用の小型火鉢である手あぶりは、手をかざして指先を温めるためのものでした。

しかし、暖房効率という観点から見れば、火鉢は極めて非力でした。輻射熱によって手をかざした部分や顔のあたりは温まりますが、部屋の空気を暖める能力は皆無に等しいのです。ハーンは部屋に複数の火鉢を並べて対抗しようとしましたが、開放的な日本家屋の熱損失の前には焼け石に水でした。「火鉢は部屋を暖めるものではなく、火を見つめて精神を暖めるものだ」と皮肉りたくなるほど、実質的な室温上昇は望めなかったのです。

また、炭の質も重要でした。高級な「佐倉炭」や「池田炭」は煙も少なく火力も安定していましたが、庶民が使う安価な炭は煙や臭いが出やすく、一酸化炭素中毒のリスクも常に付きまといました。それでも、赤い炭火の色は寒々とした冬の座敷において唯一の視覚的な慰めであり、家族や客人が火を囲んで語り合うコミュニケーションの中心地として機能していました。

炬燵がもたらす至福と制約

火鉢よりも実用的な暖房として重宝されたのが「炬燵」です。明治時代の炬燵は現代の電気式とは異なり、熱源はやはり炭団(たどん)や炭でした。床を切り抜いて炉を切り、その上に櫓(やぐら)を組んで布団を掛けた「掘り炬燵」と、移動可能な火鉢の上に櫓を置き布団を掛ける簡易的な「置き炬燵」がありました。

炬燵の最大の利点は、熱を布団の中に閉じ込め、下半身を直接温められることです。「頭寒足熱」の理に適っており、一度入ると抜け出せなくなるその魔力は当時も今も変わりません。ハーンもまた、炬燵の心地よさに魅了された一人でした。家族全員が一つの布団を共有し、足を触れ合わせながら過ごす炬燵は、日本の家族団欒の象徴的な風景でした。

しかし、炬燵には「場所が固定される」という欠点がありました。炬燵から一歩出れば、そこは極寒の世界です。トイレに行くのも億劫になり、活動範囲が極端に狭まるため、冬の生活はどうしても不活発にならざるを得ませんでした。

囲炉裏と農村の暮らし

都市部や武家屋敷では火鉢が主流でしたが、農村部では「囲炉裏」が現役でした。床を四角く切り抜いて灰を入れ、薪や炭を燃やす囲炉裏は、暖房、照明、調理、そして茅葺屋根の防虫・乾燥という四つの機能を兼ね備えた万能設備でした。

囲炉裏の火は一年中絶やされることなく、家の魂として守られていました。しかし、薪を燃やす際に発生する大量の煙は、慣れていない者にとっては目や喉を痛める原因となります。ハーンが訪れた農村や、怪談の取材で立ち寄った民家では、この囲炉裏の薄暗い灯りと煙が、物語の幻想的な雰囲気を醸成する舞台装置となっていたことでしょう。

ストーブ普及以前の時代

明治20年代、西洋式の「ストーブ(薪ストーブや石炭ストーブ)」は官公庁や学校、一部の富裕層の洋館には導入され始めていましたが、一般家庭への普及はまだまだ先のことでした。セツは回想録で「その頃の松江には、まだストーヴと申す物がありませんでした」と述べています。

もしハーンの家に本格的な薪ストーブがあれば、彼の松江生活はもっと長く続いたかもしれません。実際、彼は後に家を増築する際、「冬の寒さには困らないように、ストーヴをたく室が欲しい」と切実な要望を出しています。この言葉からは、日本の風情を愛しながらも寒さに対しては文明の利器を求めざるを得なかった彼の正直な苦悩が透けて見えます。

湯たんぽという救世主の登場

就寝時の寒さと湯たんぽの役割

火鉢や炬燵は起きている間の暖房です。しかし、最も寒さが身に染みるのは、活動を停止し冷え切った布団に入る就寝時です。ここで登場するのが、ドラマ『ばけばけ』でも重要な役割を果たす「湯たんぽ」です。

「湯たんぽ」という言葉は中国語に由来し、漢字では「湯湯婆」と書きます。「湯」はお湯、「婆」は妻や母親を意味します。つまり、妻を抱いて寝るような温かさを提供する道具、あるいは母親の体温のような安心感を与えるもの、という意味が込められています。日本では「湯婆(タンポ)」にさらに「湯」を重ねて「湯たんぽ」と呼ばれるようになりました。

この道具の歴史は古く、室町時代にはすでに日本に伝来していました。江戸時代までの湯たんぽは主に真鍮や銅などの金属製であり、非常に高価な贅沢品でした。庶民がおいそれと使えるものではなかったのです。

明治時代の革命・陶器製湯たんぽの普及

明治時代に入ると、製造技術の革新と流通の発達により、湯たんぽに革命が起きました。それは「陶器製湯たんぽ」の大量生産と普及です。高価な金属に代わり、安価な土(セラミック)を素材とすることで、湯たんぽは一気に庶民の手の届く日用品となりました。

特に明治20年代以降、信楽焼(滋賀)、美濃焼(岐阜)、瀬戸焼(愛知)、高田焼(岐阜)といった窯業地で、湯たんぽの生産が爆発的に増加しました。金属製と比較して、陶器製には独自のメリットがありました。

陶器は熱伝導率が低く、熱容量が大きいため、一度温まると冷めにくい性質があります。金属製が急激に熱くなり急激に冷めるのに対し、陶器製は朝までじんわりとした温かさを保ちます。また、陶器から放射される遠赤外線は、皮膚表面だけでなく体の芯まで熱を伝えると言われており、この「柔らかな熱」は人間の体温に近く、深い安眠を誘います。さらに、陶器の表面にある微細な気孔が呼吸することで、乾燥しすぎず快適な湿度環境を保つという保湿性も備えていました。

波型デザインに込められた先人の知恵

明治時代の陶器製湯たんぽの多くは、カマボコ型(半円筒形)で、表面に波型の溝が刻まれた独特のデザインをしていました。この波型には工学的な理由があります。まず、表面積を増やすことで放熱効果を調整し、暖かさを広げるためです。そしてより重要なのは、強度を保つためです。お湯が冷えると内部の圧力が下がり(負圧)、容器を内側に押し潰そうとする力が働きます。波型のリブ構造は、この圧力に耐え、変形や破損を防ぐための先人の知恵でした。

『ばけばけ』における湯たんぽの象徴的な意味

『ばけばけ』の劇中で、ハーン(ヘブン)が湯たんぽに初めて触れ、「アタタカイ、スバラシイ、テンゴク(天国)」と感嘆するシーンが描かれることが予想されます。これは単なるコメディリリーフではなく、彼の切実な生存本能からの叫びです。

想像してみてください。隙間風が吹き荒れる松江の夜、綿入れを重ねても震えが止まらない中、布団の足元に一つの熱源があることを。それは冷え切った血液を温め、全身に循環させ、凍りついた心を解きほぐす魔法の石です。セツが用意したこの湯たんぽは、ハーンにとって単なる道具ではなく、彼を受け入れケアしようとする「日本の情愛」そのものでした。

セツの回想録『思い出の記』には、彼女がハーンの世話を焼く様子が細やかに記されています。彼女はハーンのために特注の衣服を用意し、好みの食事を作り、そして夜には湯たんぽを準備したでしょう。言葉の壁を超えて伝わる「温もり」のコミュニケーション。湯たんぽは、二人の関係性を象徴する最も重要なアイテムとして機能しています。

信楽焼と湯たんぽ職人たちの技

日本六古窯の一つ・信楽の伝統

湯たんぽの普及を支えたのは、日本の陶工たちの技術でした。中でも滋賀県の信楽焼は、湯たんぽの一大産地として名を馳せました。信楽焼は中世から続く「日本六古窯」の一つです。信楽の土は、琵琶湖の古層から採掘される良質な粘土で、耐火性が高く、腰が強い(粘りがある)のが特徴です。この特性は、大物陶器や熱湯を入れる湯たんぽのような肉厚で丈夫な製品を作るのに最適でした。

職人たちは、ろくろや型を使って一つ一つ湯たんぽを成形し、釉薬をかけ、巨大な「登り窯」で焼き上げました。登り窯は斜面を利用して築かれた階段状の窯で、薪を燃料として1000度以上の高温で数昼夜焼き続けます。この過酷な労働によって生み出される信楽焼の湯たんぽは、素朴な風合いと圧倒的な耐久性を兼ね備えていました。

現代に受け継がれる職人の技と哲学

現代においても、信楽では湯たんぽ作りが続けられています。宗陶苑の上田宗氏や古狸庵の藤原康造氏といった職人たちは、先代から受け継いだ技術を守りつつ、現代のライフスタイルに合わせた製品開発を行っています。

上田氏はインタビューで「インプットがないとアウトプットができない」と語り、伝統にあぐらをかかず常に新しい刺激を求める姿勢を示しています。また、藤原氏は信楽焼の代名詞である「狸の置物」を作り続ける中で、見る人を楽しませるユーモアと職人としての厳しさを両立させています。

明治時代の職人たちもまた、寒さに震える人々に安価で良質な暖房器具を届けるため、土と炎に向き合い、試行錯誤を繰り返していたはずです。彼らの手仕事の跡が残る湯たんぽの表面には、使い手への無言の配慮が刻まれています。

戦時下に復活した陶器製湯たんぽ

時代が下り、昭和に入って戦争が激化すると、湯たんぽは数奇な運命を辿りました。金属類回収令によって、家庭内の真鍮や銅の湯たんぽ、あるいは当時普及し始めていたトタン製湯たんぽが供出され、武器の材料として消えていきました。

その代用品として再び脚光を浴びたのが陶器製湯たんぽです。「国策湯たんぽ」と呼ばれ、金属不足を補うために大量に生産されました。明治に普及し、大正・昭和初期に金属製に押されていた陶器製が、戦争という非常事態において再び「国民の暖」を支える主役に返り咲いたのです。歴史の皮肉とともに、陶器という素材の普遍的な強さを物語るエピソードです。

八雲の文学と冬の怪異

『雪女』に込められた凍死の恐怖と美

ハーンが体験した「寒さ」は、物理的な苦痛を超えて、彼の文学的感性を刺激し結晶化させました。ハーンの代表作『怪談(Kwaidan)』に収録された「雪女(Yuki-Onna)」は、世界で最も知られた日本の怪談の一つです。この物語の原型は武蔵国(現在の東京都・埼玉県周辺)の伝承にあるとされていますが、ハーンが描いた雪女の描写には、彼自身が松江で体験した雪の記憶が色濃く反映されています。

物語の冒頭、渡し守の小屋で激しい吹雪に閉じ込められる巳之吉と茂作。戸の隙間から雪が吹き込み、火の気のない暗闇の中で茂作が白い息を吐いて静かに凍死していく場面。これは、隙間風が吹き荒れる明治の日本家屋でハーンが感じた「家の中にいても自然の猛威から逃れられない」という根源的な恐怖と重なります。

雪女が吐きかける「白い息」は、美しくもありながら生命を奪う致死性の冷気です。ハーンは、日本の冬が持つ「残酷な美しさ」を雪女というキャラクターに投影しました。彼女は単なるモンスターではなく、自然そのものの擬人化であり、ハーンが畏怖しつつも魅了された日本の風土の象徴なのです。

囲炉裏端で語られる怪談の文化

日本では古くから、冬は妖怪や神々が身近になる季節でした。雪国では積雪によって屋外活動が制限され、人々は囲炉裏端に集まって長い夜を過ごしました。そこで語られる昔話や怪談は、娯楽であると同時に、子供たちへの教訓や自然への畏敬を伝える教育の場でもありました。

ドラマ『ばけばけ』の中でも、セツがハーンにこうした怪談を語って聞かせるシーンが登場するでしょう。囲炉裏や火鉢のわずかな灯りの中で、風の音をBGMに語られる「化け物」たちの話。ハーンにとって、それは寒さを忘れるほどスリリングで、知的好奇心を満たす至福の時間だったに違いありません。寒さが人を物理的に近づけ、物語を共有させる。冬の厳しさは、逆説的に文化の孵卵器となっていたのです。

現代に蘇る明治の温もり

エコ意識の高まりと湯たんぽの再評価

21世紀の現在、エアコンや床暖房の普及により、私たちは冬の寒さをほとんど感じることなく生活できるようになりました。しかし、その一方で湯たんぽのような前近代的な道具が、若者や環境意識の高い層を中心に再評価されています。

その理由は明白です。お湯を入れるだけで朝まで温かく、電気を使わないためCO2を排出しない究極のエコグッズであること。そして、エアコンのような乾燥を招かず、「頭寒足熱」で体に優しいこと。さらに、お湯を沸かし、布で包み、布団に入れるという「手間」そのものが、忙しい現代人にとって心を整える儀式として機能しているからです。

信楽焼や美濃焼の産地では、現代的なデザインを取り入れたスタイリッシュな陶器製湯たんぽが作られ、インテリアとしても愛されています。電子レンジ対応のものや蓄熱式のものなど、技術の進化を取り入れながらも、その本質的な価値である「じんわりとした、優しい温もり」は変わっていません。

『ばけばけ』が現代に問いかけるもの

ドラマ『ばけばけ』が描こうとしているのは、激動の時代における「他者との共生」と「日常の幸福」です。ハーンとセツは、国籍も言語も生い立ちも異なりますが、互いの「寒さ(孤独や欠落)」を認め合い、温め合いました。

ハーンは日本の近代化(西洋化)に対して批判的であり、失われゆく「古き良き日本」の精神性を愛しました。しかし、彼自身は寒さに弱く、西洋的な快適さ(ストーブや気密性)を切望するという矛盾も抱えていました。セツはその矛盾を丸ごと受け止め、日本的な方法(火鉢、湯たんぽ、着物の重ね着)と彼女自身の献身的なケアで彼を包み込みました。

私たちが『ばけばけ』を通して受け取るべきは、不便さの中にある工夫や、寒さの中にある温もりの尊さです。スイッチ一つで得られる暖かさも便利ですが、誰かのために(あるいは自分自身のために)手間をかけて作る温かさには、物理的な温度以上の「情」が宿ります。

明治の冬、松江の武家屋敷で、異国の夫のために湯たんぽを抱えて寝室へ急ぐセツの姿。そして、その温もりに触れて「天国」と微笑むハーンの姿。その光景は、100年以上の時を超えて、私たちに「豊かさとは何か」を静かに問いかけています。この冬、もし湯たんぽを使う機会があれば、その重みと温かさの中に、遠い明治の記憶を感じ取ってみてください。それはきっと、現代の厳しい冬を生き抜くための、小さくとも確かな灯火となるはずです。

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