朝ドラ「らんまん」牧野富太郎と田邊教授のモデルの矢田部良吉との確執、そして、マキシモヴィッチ博士の死

牧野富太郎は、NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルです。彼は「日本植物学の父」として広く知られている学者ですが、実際には恩師の主任教授に教室を追放された経験を持っています。彼が窮地に追い込まれた「恩師との確執」とは何でしょうか?

富太郎が植物学教室に出入り禁止になったのは、主任教授である矢田部良吉の決定によるものでした。2年前に刊行を開始した『日本植物志図篇』は、明治23年の1月に第一巻第五集、3月に第一巻第六集が順調に続刊されていました。しかし、『日本植物志図篇』が原因で、出入り禁止になりました。矢田部は、「植物学教室でも、『日本植物志図篇』と同じような本を出版することが決まったから、今後は大学の書物や標本を見せるわけにはいかない」と一方的に宣言しました。

富太郎は二度目の上京を果たした際、植物学教室を訪ねた。その際、矢田部が彼を温かく迎え、教室への出入りや資料・標本の閲覧を許してくれた。また、自宅に招待され、ご馳走になったこともあった。

この植物学教室追放事件については、多くの人が富太郎に同情的でした。親友である池野成一郎は自分のことのように怒りを露わにしたと言われています。

しかし、もともと学生でも職員でもない富太郎が、日本一の学問の場である植物学教室に出入りできたのは、ひとえに矢田部の好意によるものであった。

その矢田部に拒絶された以上、富太郎には為す術がなかった。彼は悔し涙を流した。

しかし、諦めずに取り組む富太郎は、起死回生の一手としてロシア行きを思いつくのであった。

富太郎を含む日本の植物学者たちは、ロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送り、鑑定を受けていました。

富太郎が送った標本は多くが珍しいもので、マキシモヴィッチも喜んでいました。彼は自分の著書を植物学教室に一部、富太郎にも一部送る際、絶賛の手紙を『日本植物志図篇』に寄せています。

富太郎はマキシモヴィッチを頼って、ロシアに行くことを企てました。

この頃には、富太郎の標本もさらに充実していました。彼はこれらを携えてロシアへ渡り、マキシモヴィッチの研究を手助けするつもりでした。

池野成一郎はロシア行きに大反対していたが、富太郎が一日千秋の思いで返事を待っているうちに、明治23年は終わった。

翌明治24年、富太郎の夢と希望は、ロシアからの一通の手紙によって、もろくも崩れ去ることになる。

その手紙を書いたのはマキシモヴィッチ本人ではなく、彼の令嬢であった。手紙によると、ニコライ堂の主教から富太郎のロシア行きを依頼する手紙が届いたとき、マキシモヴィッチは流行性感冒(インフルエンザ)に感染し、病の床についていた。

彼は富太郎の不遇な立場に深い同情を抱き、ロシアに行くことを非常に喜んでいた。しかし、同年2月16日に彼は帰らぬ人となってしまった。富太郎のロシア行きの計画は、叶わぬ夢となったのです。

今では、インターネットを利用して世界中と常に情報交換ができるため、ロシアに行く必要がなくても、国際学会に参加することができます。私たちも、国際学会や国連機関の仕事のほとんどをネット経由で行い、実際に会うのは年に1回程度です。

明治時代には、日本人の開拓者たちが世界に扉を開いたことが素晴らしいと思います。間宮林蔵やジョン万次郎、大黒屋光太夫、高田屋嘉平など、日本人も偉大な人物がたくさんいます。

なるほどね。

富太郎氏にも恩師矢田部教授に感謝し、大学の資料を使わせてもらっているお礼を申し上げる必要があった。大学の出入りを許し、研究することも許していたのだから、急に出禁にする理由を富太郎も考えなくてはいけなかった。

確かに人間関係は機械同士の絡み合いではなく、情の繋がりだから親しき中にも礼儀あり。仲間同士でも礼節を重んじなければいけないし、ましてや今まで便宜を図ってくれた恩師なのだから、礼を尽くせばそのような無碍なことはしなかったかもしれない。

ただ、後は矢田部教授が富太郎に嫉妬していた面もあるのだと思う。正直、植物に対する造詣が深いのは富太郎であり、また知識も豊富で、半端なにわか知識では太刀打ちできない。矢田部は己の立場を危うくする富太郎を疎ましく感じたことも考えられる。

ただ、富太郎に皆同情的だったのは、それだけ彼の学者としての才覚を閉ざしてはいけないと思ったのだろう。

富太郎がお世話になった人たちに礼を欠いてしまった理由は何だったのだろうか。自分の実力を証明するためだったのかもしれない。らんまんも、今後はこのような展開になるのだろうか。今回の朝ドラは、退屈な話がなく、一人ひとりの言葉が心に響くものがたくさんあり、毎日が楽しみです。

池野さんは波多野さんに、藤井さんは藤丸さんになったのですね。やはり親友にもモデルがいたのですね。

マキシモヴィッチ氏の急逝が、牧野先生が日本に残ることにつながったのでしょうか。 これが日本のために良かったのかどうかはわかりません。 ただ、ロシアもしばらくすると革命が起きるため、牧野先生が日本にいた方が良かったかもしれません。

「親しき中にも礼儀あり」ということですね。相手が自分を取り立ててくれた恩師である以上、なおさらです。恩師には十分な研究環境を与えていただき、牧野は次々と驚くべき研究成果を発表できたのです。自分の独学だけで成し遂げたわけではありません。

後年、牧野はその確執を回想して、「私の業績に対して、恩師の矢田部教授が嫉妬して弟子に負けては格好がつかないと思い込み、私を研究室から追放したのだ」と恨み言を述べていました。恨み言を言う気持ちはあったかもしれませんが、牧野の独善的で礼節を欠く態度に矢田部教授も見限らざるを得なかったのが真相でしょう。

万太郎の植物に対する熱意は相当なものだが、日本は序列や組織を重んじる。ましてや推薦状を頼りに一教授の好意により東大の研究室に出入りを許された身であることを忘れてはいけない。教授としては優秀な植物ハンターが入ってきて良かったぐらいに思っていたかもしれない。

田邊教授は万太郎が学歴が全くないことを案じて、留学を勧めたりしている。それができない場合は、自分の下について勉強することを提案している。この意見は筋が通っている。

万太郎は世間知らずなため、周り道を嫌い、何でもすぐに自分の手柄にしたがる傾向がある。東大の研究室に身を置き、大学の資料を参考にしながら研究を進める中、教授の許可を得ずに本を出版したため、怒りを買って破門になるのは当然のことである。

だからドラマの中の田邊教授も心底悪人として描かれていないのかな。 一生懸命だからわかるけど、他人が見えていない槙野は、優しい人に囲まれてこれまで難なくやってこられたけど、当然優しい人ばかりではないわけで、行手を阻まれたことも多かったはずでしょうね。

らんまんはドラマだけど、その一生懸命さが時には周りを不幸にしたり、幸せにしたりと波瀾万丈なんだなと思います。 ただ、やっぱり、周りにとっても助けてもらった人だったと思います。

天才というか、親しい仲に礼儀あり、というのは実は無頓着だったのではないか。大学の資料は皆が閲覧できるものだという認識もあったのではないか。矢田部教授が恩を仇で返したとしても、バッサリ切ったのは嫉妬や何らかのドス黒いものがあったんだと思う。モーツァルトとサリエリのような関係?と言ってもいいかもしれない。

教授に「自分の飼い犬のようになれ」と言われたことに対する対抗心から、博物館のいとうせいこうさん演じるところの方から、本を出す方法があると言われたため、感謝の言葉は述べず、資料も大体は万太郎が整理していたので、ことわりを入れなかった側面があるように思う。

矢田部は26歳で教授に就任しました。矢田部が33歳、牧野が22歳のとき、牧野が矢田部を訪ねました。この時、矢田部は36歳で、牧野は既に25歳でヤマトグサを発表していました。矢田部は植物学以外の仕事もしなければならず、植物学の研究に集中する時間が少なかったです。彼が後進の育成に専念するにはまだ若すぎました。そのような状況下で、自分より年下の牧野に嫉妬するのも理解できます。

偉大な功績を残した人でも、完璧な人間はいないものです。牧野が矢田部教授に受けた恩に対する受け止め方には疑問が残りますが、矢田部氏が教育者として大きな心を持っていたなら、牧野は学生でも教え子でもありませんが、結果的に偉人の育ての親として存在することができたかもしれません。牧野氏の不遜な態度を差し引いても、矢田部氏の懐の深さが欠けていたとは言えないでしょう。

やはり学問の世界も人間関係が大切ですね。正直言って、謝辞すら載せないのはどうかと思いますが、学問の世界では「研究費」以外に金銭に無頓着な先生方が多いように思います。しかし、名誉や名声を含めた引用数にこだわる先生方も多いです。

牧野さんは優秀ですが、物事に没頭すると周りが見えなくなるという欠点があります。それが彼女の良いところでもあるのですが、高知の人々は彼女の人付き合いにおいて礼儀に欠けた面があったのではないかと思います。

私は毎朝「らんまん」を見ていますが、牧野博士はかなり変人的な印象を受けます。植物に没頭しすぎて周りが見えていないことも多々あり、周囲の人々は大変だったでしょう。しかし、彼女の情熱があったからこそ、植物学者として成功したのだと思います。

教授も大学での立場があるので、自分の裁量で許可できる範囲を超えてしまうと、大学で問題になる可能性があります。それは普通ではありえないことであり、そこまでしてもらったことに感謝すべきだと思います。

牧野氏は、植物学においては天才的な学者だったと思いますが、人間関係を円滑にする能力や、日常生活に必要な金銭感覚が欠如していたように思います。上手く生きていくためには、ある程度のバランス感覚が必要不可欠です。ある分野だけに突出した能力を持つ天才にありがちな人生だと思います。

富太郎は、野生植物学者の伊藤篤太郎と矢田部教授のトガクシソウの新種命名に関する争いを間近で見聞きしており、学者にとって新種の発見と命名がどれほど価値があるのかをよく理解していたはずでした。そのため、富太郎は功名心を持ち続けていたと思われます。矢田部教授に新種を見せることは手柄を横取りされかねず、新種を発見しても矢田部には見せず、鑑定を仰ぐこともなく黙って出版したのです。当然、教授が突然そんな素晴らしい出版物を見せられたら、カチンと来るでしょう。

牧野富太郎さんの経歴を見ると、彼は自分自身の意志に正直であったことが分かります。令和時代と比べると、当時は様々な制約があったであろうに、自分の思うままに生きた強さを羨ましく思います。

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