朝ドラ「らんまん」こんな牧野富太郎氏を主役にできた脚本マジックにはびっくり仰天です

天才植物学者の牧野富太郎は、小学校中退から東大で研究生活を送り、自分のブランドとして「小学校中退の学者」を認識していた。彼は既婚でありながら、別の女性と子供を作り、娘が病気になっても植物採集に夢中になっていた。彼は無頼派の学者として、太宰治や中原中也と共に日本の文化史に名を残している。

この種の話題は、次から次へと出てきますよね。YouTubeでもやっていて、つい観てしまいました。『らんまん』では、史実を所々に織り込んで上手くまとめていますよね。こうなったら、神木くんと美波ちゃんの物語として最後まで観るしかありません。

現代社会とは全く価値観が異なるため、現代の感覚で「酷い男だ許せない」と簡単には言えませんね。女性の人権がないと同等であり、戸籍に「妾」という言葉が記載されていた時代がありました。この時代の女性たちの苦労は、現代の私たちには計り知れません。現代社会では、男女平等と言えるようになったとは言い切れませんが、実質的にはまだまだ平等とは言えないかもしれません。それでも、男女平等と堂々と言える現代に生まれたことに感謝したいです。

3年前に課題図書になったことをきっかけに、牧野さんの人生を書かれた本を読みました。牧野さんはとんでもない人物で、もしその妻だったら私なら根を上げてしまいそうです。しかし、不思議なことに周りはサポートし続けています。特にお金面でのサポートが目立ちました。また、牧野さんは絵が上手く、フィールドで、誰も見向きもしない山野草を一つ一つ丁寧に観察し続ける、すごい人物でした。牧野さんと山歩きをしたら楽しそうだなと思いました。妻や周りが牧野さんをサポートした理由は、植物学の才能があるからなのか、わかりませんが、私は本を読んで奥さんが素晴らしいと感じました。

朝ドラなどで歴史上の人物を取り上げる場合、注意不足のケースが散見されます。牧野富太郎の遊郭好きや重婚疑惑は有名なエピソードで、好色の人物だったはずです。ドラマはファンタジーであり、今とは違う時代だから描くのは難しいかもしれませんが、聖人君子の天才のような描き方だけでは不十分ではないでしょうか。

東大研究室とはいえ、東大に合格したわけでも教員として採用されたわけでもないのに、なぜか研究室への出入りが許可された不思議な人物です。推測ですが、当時の植物学はニッチな分野で研究室の志願者が少なく、また教授になる意欲もなかったため、便利な助手として重宝されたのかもしれません。

私は、こんな人物がいることを朝ドラが始まる前に知りました。それで、朝から気分が悪くなり、ちむどんどんの二の舞になるかもしれないと思い、観るのをやめようかとさえ考えたくらいでした。しかし、朝ドラを観る習慣につられて、つい観てしまいました(笑)。

脚本家さんがとても良いドラマにしてくださっているので、気持ちよく観ることができます。

この方の自叙伝は、いろいろな方が亡くなられた晩年に書かれたものが多く、どこまでが本当のことなのか、ご都合主義で書かれていないか疑問を持たれている方もいます。

田邊教授もどこまで嫌な人物だったのか測りかねます。

全く働かずに好きなことをして、お金のことは全て妻に任せていたという主人公の生き方は、これまでの朝ドラ視聴者なら非難の的になりそうなところですが、実在の人物をモチーフにしているから好感を持たれているのかもしれません。しかし、実在の人物はドラマよりも酷い人物だったので、ちむどんどんのように非難されなかったのかもしれません。

史実は史実としておいて、ドラマはドラマとして楽しめば良いと思います。

まず言えることは、時代が変わったということです。昭和以降の倫理観や価値観、人生観など、現代から見ると信じられないような人物であったかもしれませんが、昔はそうしたことはよくあったのです。朝ドラではもちろん、そこはオブラートに包んで誰にでも受け入れられるように脚色されています。ドラマですから、ドキュメンタリーではありません。

彼に関わった人たちが振り回されたこともあったかもしれませんが、非常に興味深い内容です。

実際の牧野富太郎の姿を忠実に描くことがさらに面白いのかもしれませんが、朝ドラ用に多少脚色していても問題ありません。このドラマがなければ、植物学者の大家である牧野さんを知らないままでした。

家康のように、夫婦関係などを美化しすぎて、そのフィクション性に違和感を覚える人もいるかもしれません。スカーレットのように、史実に厳密に則りすぎると、不快に感じる人もいるかもしれませんが、人物像を表現する上で大切なことは、大事なところを飛ばさないという姿勢です。モデルになる人がいる場合でも、美化しすぎず、人間くさい一面があるといいと思います。

近年の大河ドラマでも、悪人的な人物を実は他人が悪かったことにしたりして、好感度を高める試みが見られますが、『らんまん』も、朝ドラには出演できないような牧野富太郎を、都合の悪いことは全て変えて、好感度の高いヒーローに仕立て上げたのは素晴らしい取り組みだと思います。

昭和初期くらいまでは、裕福な男性がおめかしさん(愛人、側室)を持つことが一般的で、ステータスの象徴となっていました。これは、妻も心中は色々あったでしょうが、家の裕福さと夫のステータスを示す自慢でもあったのです。現代の感覚で見ると、悪魔的なものとして批判されるかもしれませんが、それは気の毒な話です。私の曽祖父の家族写真には、息子4人と本妻(妻)の他に、もう1人の女性が堂々と並んで写っています。ただし、本妻が着用している紋付き黒着物よりもランクの下の薄色の無地着物を着ているため、自覚はあったのでしょう。という話です。

史実に忠実であることは炎上の原因となることもあるかもしれませんが、神木隆之介さんと浜辺美波さんが出演することで爽やかな印象を与え、脚本の力によって視聴者を夢中にさせることに成功しています。

一方、「らんまん」は架空の人物である槙野万太郎を主人公としたフィクションであり、牧野富太郎はモチーフに過ぎません。つまり、万太郎と富太郎は似て非なるものです。

放送中のドラマにおいて、モデルとなった人物の現代の常識から考えられない行動を批判する必要はありません。

ドラマでは、さかなクンのように、一つのことに集中して純粋で世俗からは遠い人物として描かれます。神木さんが演じているから余計にそう感じるのかもしれませんが、女性関係や金銭関係は時代背景が異なるため理解できますが、音楽活動に夢中だったのがちょっとショックです。

この人に限らず偉人には、こうした話が多いようです。英雄色を好むを地でいった伊藤博文、美少年が大好きだった江戸川乱歩、借金王石川啄木、野口英世も経済観念がゼロだったらしく、借りても返さない常習犯だったとか。しかも、悪意がないところが厄介だったとか。

偉人の裏の部分は面白いですね。偉人と奇人は紙一重ってことでしょうか。

自称大河ドラマファンや歴史愛好家が「史実と違う!」と怒るのは、ドラマの見方やドラマとは何かということについて考えないからである。本記事においては牧野富太郎の人生は史実どおりであるが、それでも『らんまん』が見る価値のないドラマかといえば、決してそうではない(現在までのベスト朝ドラマの一つと私は思っています)。特に素晴らしいのは脚色で、どのように史実を改変しているかが見どころである。脚本家の長田さんの腕前は見事であり、史実にこだわることなく、万太郎をモデルにした天才で鈍感だが優しい男性、そして妻の寿恵子を良妻賢母を超えた八犬伝オタクに描いたことが具体例として挙げられる。また、明治時代に翻弄される男たちの弱さと、彼らを見守る女性たちの強さを描いている。このドラマは偉人伝でもモデルを美化するでもなく、極めて現代的なドラマである。そこに注目するべきである。

「ドラマ」はあくまでも事実とは異なるものである。また、万太郎が既婚でありながら求愛する場面があるが、当時は妾を持つことがステータスとされる時代であり、年齢についても幼少期から許嫁が決まっていることは珍しくなかった。大昔のことを現代の感覚で無理やり批判するのは無意味である。万太郎が異様に叩かれるのは、こういった記事を目にしているからだろう。

らんまんは余りに美化され過ぎていると感じます。彼のせいで実家が潰れたことや、腐敗についての話を、よく他人に責任を転嫁したこともあると思います。また、借金や二人の教授との確執、他人の子を作ることなど、らんまんは他人のことを思いやることを知らない、単に植物が好きな我儘な人物だと思います。そのため、「らんまん」がどこまで美化できるのかという視点で楽しんでいます。

このドラマは史実を忠実に再現したものではないので、批判する必要はないと思います。当時の価値観や常識を、令和5年に語ることもできず、考え方が理解できない部分もあるでしょう。だからこそ、この人物を極端に批判することはできないと思います。昔の偉人には、奇人変人や性的嗜好が独特な人もいたり、金遣いが荒かったり、お妾さんを持っていたりと、色々な面があると思います。例えば石川啄木は、自分自身でお金を散財して、生活が楽にならずに困っていたのに、薄給であったわけではありませんでした。昔の時代や価値観を美化しがちですが、昔はもっとグダグダだったと思います。私たちがイメージする昔のキレイな街並みは、時代劇のセットであることに気付いたら、逆に歴史に興味を持つようになりました。

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