朝ドラ「らんまん」画工の野宮さん(亀田佳明)、田邊教授(要潤)に逆らってしまって涙目。

福治(池田鉄洋)は、NHK総合の『らんまん』第83話で、楽しそうに植物採集をする万太郎(神木隆之介)を見て、ゆう(山谷花純)に自分の胸の内を明かしました。福治は、楽しければ楽しいだけど、どこか怖くなると話しました。この言葉に、ゆうは万太郎たちを眺めながらこう言いました。

「楽しむこと、もう怖がらなくていいのよ。たとえ悪いことが起こっても、その先できっとまた笑えるんだから」

十徳長屋に万太郎がやってきてから、彼らの日常は変わった。植物研究に情熱を注ぐ天真爛漫な万太郎に触れたことによって、「楽しい」は特別なことではなくなった。万太郎に影響され、福治は娘・小春(山本花帆)を育て上げるだけでは足りない、と思えるようになった。「うんと幸せにしてやりてえ」と話す福治に、ゆうも離れていても子どもの幸せを願いたいと打ち明けた。

万太郎の存在は、さまざまな人の心を動かす。田邊(要潤)も例外ではない。そして第83話では、画工の野宮(亀田佳明)にも変化があった。

海外から槙野万太郎に関心を寄せる手紙が届き、田邊は顔を曇らせる。そこへ野宮が植物画を持ってやってきた。野宮は万太郎のような植物画を描くよう命じられている。万太郎に後れを取りたくない田邊は「野宮、もっと腕を磨け。槙野を超えろ」と奮起を促す。しかし野宮は「槙野さんと並び、互いに励んではいけませんか?」と言った。

熾烈な競争が繰り広げられる研究の世界に生きる田邊は、小学校中退という学歴の万太郎と肩を並べることを好ましく思わない。「絵に経歴は関わりがありません」と訴える野宮に、田邊は「だから何だ? クビになりたいのか?」と苛立ちを見せる。それでも野宮は引き下がらなかった。植物学教室で行われている肉眼では見えないものの研究には、顕微鏡の奥の世界を精密に描ける植物画家が必要だと、野宮は田邊の目を見て嘆願する。

田邊と野宮の関係は対等ではありません。田邊にスカウトされ、専属の画工として働いている野宮は、かつて万太郎に「教授の役に立つうちはここにいられますから」と言っていました。野宮は“田邊教授の意向”に添わなければならない立場にありますが、野宮は万太郎を遠ざけることを決めた田邊の意向に背くことにしました。

野宮は田邊の圧力に怯まなくなったわけではない。田邊が「では福井に帰れ!」と激昂する場面もあり、萎縮してしまうこともあった。それでも、野宮は黙って応じることに抗い、「植物画家としてもう一度槙野さんに声をかけていただけませんか?」と訴え続けた。

万太郎と出会い、楽しむことを怖がらず、自分の夢や望みを追うことができることを知った野宮もまた同じであった。野宮は自分よりも万太郎の方が優れた植物画家であることを認めながらも、今の日本には存在しない精密な植物画を描く画家になりたいという願いを抱いた。

今後、田邊にも何か変化が訪れるのだろうか。現在は、万太郎の活躍に顔を曇らせるばかりの田邊にも、何か新しい気づきが訪れることを期待したい。

なんという濃密な15分だったんだろう。ゆうさんと福治さんの会話で、自分の意思で自らの希望の道を定めることが示され、感動した。「楽しむことを怖がらなくていい、悪いことがあっても、その先にいいことがあると考える」、ただ生きるのではなく、希望・目標を持つ人の清々しい表情が印象的だった。

野宮さんが、自分の職を失う恐れがある中で、植物学教室のために万太郎を画工として雇ってほしいと田邊教授に直訴したシーン、信念を持つ人の迫力を感じた。万太郎にとって、経済的な面でも救いになるといいなと思った。

ゆうさんはいい女だ。福治や藤丸君のようなちょっと卑屈でネガティブな人とも相性抜群だ。適切に前向かせ、歩かせてくれる。福治が好きだと言ってしまうのではないかとドキドキした。 まだ早いと思ったんだけど、福治はポリポリと何かをかじりながら、50銭を取り立てる雰囲気を出していた。どこまでも追ってきそうな悪徳取り立て屋の雰囲気や、丈之助が待たせている女がいることに対して、聞いていないと怒るところなど、なんで怒るんだよってところなど、桶いっぱいに野菜がギチギチで、まったく売り切れずに帰ってくるところなど、アカンところが多い。小春とゆうは心が通じ合っているから、この2人はいい感じだけどね。

福治はしっかりとした男、福治になって欲しい。こんないい女、ゆうさんはもったいない。認めたくないけど、福治、がんばってほしい。

田邊教授は、野宮の発言に苛立ち、「福井に帰れ!」と激怒する。田邊教授は、かつて福井の中学を視察したとき、美術の授業をしていた野宮を気に入って東京に呼び寄せた。今でいうスカウトだ。自分がスカウトした責任について、田邊教授はまったく考えない。自分の使用人どころか、「備品」のように扱っている。田邊教授は、人の気持ちを慮ることができない、愚かな人物だ。

しかし、以前「俺のものになれ!」と命令して断られた万太郎は、好きなようにお金を使ってきたので、家計を管理する寿恵子から、もう経済的に底をつきそうだと言われた。ここは、田邊教授の意をある程度は汲んで収入を得るしかない。

今日も、野宮さんも長屋の人たちも、万太郎は自分の興味に集中して邁進しています。しかし、図らずも、周りの人々に良い影響を与えているようです。

田邊は「まともな教育も受けていない」と言い、野宮は「経歴は関係ない」と言います。この「小学校中退アピール」には違和感を覚えますが、それは脚本家に責任はないことです。自叙伝をベースにして誇張する必要があるためです。

問題は自叙伝です。明治期には学歴なんて存在しませんでした。あるのは身分階級であり、1890年には田邊教授が学歴で罵倒することはありませんでした。京都帝国大学が創設されてからわずか2年〜3年の出来事です。晩年に自叙伝を書いたときには、学歴社会への移行が進んでいました。

「なぜ四国の正岡子規と同じように東大に行かなかったの?」、「田邊教授と同じようになぜ自費で米国留学しなかったの?」などのツッコミ対策や、「小学校中退なのに東大教授や名門伊藤家を押しのけて植物学の第一人者になったんだ!」と思わせるために、自叙伝に誇張が含まれている可能性があります。

以上から、自叙伝の信憑性には欠けると思われます。

私は、このドラマが周囲の人々が万太郎に触発され、変化していく様子を描くとは思っていなかった。しかしその設定は、私たちが普段から抱えている問題に深く関わっていると感じました。実際に、このドラマを見た友人からも、同じような感想を聞くことができました。また、この作品が私たちに伝えようとしていることは、社会においても非常に重要なものだと考えます。それゆえ、このドラマを多くの人に見てもらい、そのメッセージを広めることが必要だと思います。

野宮さんは話しすぎたかもしれない。そのため、田邊教授の苛立ちを逆に加速させてしまった。

素晴らしい寸評です。感動しました。

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